エスカレーターの片側を歩く人のために空ける習慣が定着して久しい。歩くことの危険性の問題はさておき,「歩きレーン分離マナー」を支持する方の主張の根拠の一つが,効率性だ。エスカーレーターを歩く行為を認めたほうが全体的に人々が速やかに移動できるからよい,というのだ。
例えば鉄道の駅。ホームに人があふれかえると危ない。だから速やかに駅から出るため必要なマナーだ,という人。
他の公共空間でも,他者の利益を尊重して,先を急ぐ人を優先すべきだという人。
つまりは時間短縮である。時間短縮イコール利益の世の中で,その方がみんなが幸せだというわけだ。

ではほんとうに輸送効率の観点から見て合理的と言えるのか。ちょっと頭を使って考えれば答えは明らかな問題なんだが,どうも世間の常識というものは違うらしい。そこで具体的な数字が知りたくて計算してみた。数式を見ると頭が痛くなる人はグラフから下をごらんください。

エスカレーター垂直速度:Ve, 歩行の相対垂直速度:Vm , 段差: h (図1)とすると
利用者は1段おきに離れている(図2)のが通常なので

A : 利用者が静止しているときの列ごとの最大輸送力= Ve/2h
B : 利用者が歩くときの最大輸送力=(Ve + Vm)/2h

したがって,エスカレーターの幅が大人2人分あるとき,
条件1 << 両列を利用する場合>> の最大輸送力 W1

W1 = 利用者が静止している列の最大輸送力 A x 2
= Ve/2h x 2 = Ve/h

条件 2 <<片側を歩行に開ける場合>> の最大輸送力W2は以下の式で求められる。

W2 = 利用者が静止している列の最大輸送力(A) + 利用者が歩く列の最大輸送力(B)
= Ve/2h + (Ve + Vm)/2h
=Ve/h + Vm/2h

エスカレーターの図
図1

よって

W2 > W1

であり,その差は Vm/2h となり,一見効率的であるかのように見える。
そこで,より実際に近い状態を想定してみよう。例として,

全長 50m
 高低差  25m

のエスカレーターに,各条件の下で利用者P人を何秒で輸送可能かを計算してみよう。

エスカレーターの標準的なデータは以下の通り

段差 h

0.20

m
勾配

30

degree
エスカレーターの速度

30

m/分
エスカレーター垂直速度Ve

15

m/分
エスカレーターの図2
図2

この条件下で,エスカレーターを歩いて移動するとき,1秒あたり1段登る(あるいは降りる)と仮定して計算すると

歩行の相対垂直速度Vm =12 m/分
静止列の人が出発点から終点までに要する時間= 25 /15 =1.67 分
歩く列の人が出発点から終点までに要する時間= 25 /(15+12) =0.93分

歩く人と動かない人の個人同士を比べると,エスカレーターに乗ってから降りるまでの時間には0.74分の差が出る。ところで全員を輸送するのにかかる総輸送時間Tは,条件 1の場合は単純に

T1 = P / W2

で求められるから利用者が100人であれば

T1 = 100/15/0.2 =1.33 (分)

一方,条件2の場合,歩く人が総人数に占める割合は一定ではない。
歩くことを選択する人の割合を kとすると,条件2の場合の総輸送時間T2は,

T2 =max( (1 – k) P / A, kP / B)
= max( 2h(1 – k) P /Ve, 2hkP / (Ve + Vm))     *maxは最大値を取る関数

上記の式をもとにしてkを0から1までの範囲で変化させて得られたのが以下のグラフ。
水色が静止列,緑が歩行列の輸送時間を示す。

グラフ1:エスカレーター
グラフ1: エスカレーターの輸送にかかる時間(100人当たり)と歩く人の割合の関係

総輸送時間は歩く人の割合kが低いと高く,割合kの増加に伴って直線的に減っていくが,kが0.65のとき(この例では0.96分)を境にして増加に転じる(グラフ1 赤い破線の角のところ)。歩行列を設けることを前提とした場合,k=0.65のとき最も効率的に輸送できることがわかる。
実際には,静止列が空いているのに,わざわざ列を作ってまで歩く列に並ぶ人はいないので,歩く人の割合が最適値(この例ではk=0.65つまり65パーセント)以上にはなることはない。

また,上記グラフで条件1と条件2の交差するのはk=0.48 のとき(グラフ1:縦の点線)。つまり,歩く意志のある人の割合が48%を下回る場合は,入り口付近で順番待ちをする人の割合が増えるため,かえって両列共に歩かずに全員静止していた方が,全体としては効率的に輸送されるということなのだ。

さらに,歩く人の割合が最適値を下回る場合は,静止列の最後尾の人は歩行列の最後尾よりも常に遅く到着する結果となる。そしてその格差はkが小さくなればなるほど急激に拡大する。片側がガラ空きなのにも関わらず,エスカレーターの入り口に順番待ちの人溜まりができるという,駅のホームでよく起こる状況を思い浮かべてもらえればよい。

歩く人の割合が3割の場合には,輸送所要時間(列毎にすべての人を輸送し終えるのにかかる時間)の格差が4.25倍,歩く人が15パーセントになるとなんと格差は10倍に達する(下図)。

グラフ2: 所要時間の格差(静止列の輸送所要時間/歩行列の輸送所要時間)
グラフ2: 所要時間の格差(静止列の輸送所要時間/歩行列の輸送所要時間)

大づかみに言えば,エスカレーター上を5割強の人が歩きたくないなら,一方の列を歩く人のために空けておくことは効率の観点から見て非合理であり,歩く人の割合が65%(垂直歩行速度12m/分の場合)を下回る場合は小さければ小さいほど歩かない人が不利益を被り,歩く人との所要時間の格差が急拡大する,という結論になる。この非合理性は,歩く速度を速めても,エスカレーターの数を増やしても解決することがない。

あくまで個人が「自分だけ早く先へ行きたい」という欲求を叶えることを第1に望むなら,歩いたほうがよい。しかし,その速度は

エスカレーター垂直速度 + 歩行の垂直速度

であるから,移動時間は歩く速さ次第。歩行を望む人の多さには関わりがない一方,静止している人の移動時間は歩く人の存在を認めることによって著しく延長する。しかも「歩くことを望む人が少ないほど」延長する。

駅のホーム

私たちの社会ではあれこれの利害が対立する時,何が一番多くの人に幸福をもたらすのか,という視点から考えることはたいせつだ。もちろん各人の自由は尊重されなければならないが,それが他人の利益を損ねるものであってはならないし,社会全体として見たときに便益を低めるものであってもならない。

エスカレーターを歩いている人の中にも,本当はあまり歩きたくないが,後ろからせっつかれるのがいやで仕方なく歩いている,という人も少なくないはず。現実に,歩くことを望む人の割合がどれだけあるのかを示す調査データは,私の手元にはまだない。しかし日頃観察している限りでは,歩行派が5割を超えているケースは極めて少ない。

1件のコメント

  1. 補足2
    拙文で使っている輸送力という言葉は,短い時間(たとえば1秒間)で測ったときにどれだけの人が出口から降りてくるのかを指します。
    ある瞬間だけとらえると,一見歩くのを認めたほうがよいように感じてしまうんですね。でもそれは錯覚なんです。

    齋藤 咲平
  2. 補足1
    拙文の「この非合理性は,歩く速度を速めても,エスカレーターの数を増やしても解決することがない。」の意味について

    グラフ1をよく見てください。歩行速度を上げていくと,緑の角度が小さくなります(水平に近づく)。すると最適解は右へ移動し,輸送時間の最小値は下がって最大輸送効率が上がりますが,それは単に「より多くの人が歩く」ことでしか実現できません。
    仮に,「歩く速度は上げても歩く人の割合は変わらない」ならば,歩かない人との移動時間の格差はさらに拡大します。一部の人が急げば急ぐほど,この奇妙なマナーの非効率性・日合理性が際立つのです!
    一方,エスカレーターの数を増やした場合,輸送力は高まりますが,その結果,「本当は歩きたくないのに歩かされていた」人が歩くのをやめます。すると,輸送効率はみんなが歩かないで仲よく詰めて乗る場合よりも「低くなる」のです!

    齋藤 咲平

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です