オジサンは今、いささか気分がよろしくない。

一昨日、東京に大雪が降った。今朝もまだ、道にはところによって雪がかなり残り、除雪された路面が凍りついていたりしている。

駅へ向かう道を、黒いコートを着た男が足速に歩いていく。足を滑らせたが、体勢を立て直すとそのままの勢いで歩いていく。雪が途切れると、小走りになる。

後ろから年配の男が来た。雪道に気をつけている素ぶりはない。

駅に集まる人々は、誰も彼も「転んで頭を強打するリスク」など頭に入っていない。代わりに彼らの頭を占領しているのは、「電車に乗りおくれて遅刻するリスク」だ。

この二つ、性格が異なるから同列に置いて比較するのはおかしいのだが、ひとは「あれかこれか」と二者択一にして、狭く考えてしまう傾向がある。

多分、ほとんどの人にとって遅刻の方が死傷の危険よりもずっと大きく感じられているのだろう。自分が転んで大怪我を負う可能性はない。あるとしても、とても低い、と信じている。

しかし、考えてみよう。考慮する必要がないほど可能性が低いという、その根拠はどこにあるのだろう。

いままで転んだことはない。だからこれからもないだろう。と、ひとは思う。テレビで雪に足を取られて転んだ人を見たが、怪我をしたようではなかったし、大丈夫に違いない。

遅刻したことがある。だから今日も遅刻するかもしれない。そうひとは思う。また遅刻したら上司から叱られ、評価が下がる。これは自分の人生にとって、とても大変なことだ。

これらは確かな根拠のない、単なる信念に過ぎないのだよ。つまり、思い込み、です。

雪の降った翌朝の、日陰の、幅の狭い舗装道路は、溶けた水が再凍結していることがよくある。見た目には雪がないので、歩きやすく思うのだろうが、雪の残った道よりも滑って転ぶ可能性は高い。そこを、時間を気にして急ぎ足で歩けば、ますます転倒する可能性は高まる。
さらによくないことに、南関東に住むひとは雪の経験が少ないため、雪が積もった道や凍った路面を安全に歩く技能を身につけていない。

時間に追われて凍った路面を急ぐひとは、自ら進んで生命のリスクを上げていることに気づかない。

思い込みは人間が生きていくために必要な才能だが、それが裏目にでることだって、少なくない。思い込みは、そのひと自身が抱える内なるリスクだ。そしてそのリスクは気をつければ減らすことができる。

自分だけは大丈夫。自分は死なない。そう、多くのひとが思って、道を急ぐ。そんなに急いでどうするのか。

こんな日は、滑りにくいブーツを履き、いつもより早めに家を出て、慎重にルートを選んで歩く。それだけでいいのに。溜め息が出る。

駅に着くと、転びそうになりながら駆けて行ったさっきの男がホームに立っていた。

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