“Necessary and sufficient”, 日本語でいうと「必要かつ十分」はコンピュータで検索するときに使う類の、論理的な概念だ。数学の授業で命題の証明をするときに使ったっけね、「必要十分条件」。
自分が知的であると装いたい人にとってなんと甘い響きを持った言葉であることか。この用語の間違った使い方が科学論文で蔓延していると、日本人科学者が問題を警告しています。


Natureダイジェスト記事
「必要かつ十分」という語句の誤用をなくすべきだ
Nature ダイジェスト Vol. 15 No. 9 | doi : 10.1038/ndigest.2018.180938
原文:Nature (2018-06-14) | doi: 10.1038/d41586-018-05418-0 | The phrase ‘necessary and sufficient’ blamed for flawed neuroscience


この誤用のせいで、神経科学の分野で認められるべき成果が認められないなどの実害が出ていると、原論文の筆者らは指摘しています。論理が大切なはずの科学者でさえ、この有様なんだね。ことば、軽いな。

政治家や役人や新聞テレビが乱用している言葉やフレーズにも、間違った使い方は多い。

テレビのナレーションで私が気になる言葉はたくさんある。例えば文末に使う、「〜なんだとか」。テレビ番組のナレーション特有のこのフレーズ、ニュース番組や情報バラエティで毎日聞きますね。

「この渋い佇まいが人気の理由なんだとか。」(某キー局夕方ニュース番組の特集でのナレーション)

テレビのナレーションには、伝聞を表すことばとして、「〜だそう」と「〜と言います」も頻繁に使われている。これらの表現にも違和感を感じるという人は多いけれども、「〜なんだとか」には見過ごすことのできない問題がある。

「〜なんだとか」の正しい表現は、「〜なんだとか〜ないんだとか」だ。ひとから聞いたんだけど、よくわからないだよね、というのが本来の意味あい。話題を茶化すことにより、ものごとを突き放してみるのが元の表現の精神なのだ。

「これで必要十分なんだとかないんだとか。」
なんてね。

いや、元の意味はそうかもしれませんが、この場合は単にものの言い方を柔らかく表現したいために使っているのですよ。軽い感じでいいでしょ。言葉の意味は変わるんです。現に、普通にみんな使ってるし、苦情も来てないし。便利じゃないですかこのフレーズ。

などと反論が返ってきそうだ。しかし、それで済ますことのできない問題がこのフレーズにはある。

「〜なんだとか」という曖昧な物言いには、文言に対する責任を回避したいという書き手の心理が隠されている。元のフレーズ「〜なんだとか〜ないんだとか」の後半をなくしているのは、単なる誤用ではなく、その真意を悟られまいとする工作の痕跡だろう。作為を感じる。

日本語では一つの文章の結論は文末で決まる。例えば、ごにょごにょと言葉尻を濁すのは自信のなさの表れと見なされるだろう。だから、一連の言葉をどう終わらせるのか、が日本語を話すときには大変に重要なことだ。元のフレーズの後半を言わないのは、このゴニョゴニョ精神なのだなきっと。

これは私個人の妄想なんかではない。例えば、読売テレビ道浦俊彦氏のブログに、2017年6月の新聞用語懇談会の席でこんな発言があったことが書かれている。

(KTV)「~なんだとか」の多用も違和感がある。この表現を使っていたディレクターに聞くと「お店の人の話ではそうなのだが、 自分は(その話の内容に)責任を取れないので」と話していた。責任を取り切れなくて、何となくごまかす口調なのではないか。(強調は筆者)
新・ことば事情6394「だそう」, 道浦俊彦TIME, 2017.7.20

ここにはディレクターの本音が出ている。

聞いた話が本当のことかどうかはわからない、と自覚している。だから断言しない、というのは一見すると真面目な態度にも受け取れるけど、そうかなあ。

「なんだとか」には主語がない。誰が言ったのか聞いたのか、誰が思ったのか見たのか、原稿を書いた人あるいは取材した人がどのように確かめたのか確かめなかったのか、皆目わからないような文末表現はアウトだ、と思う。主語をはっきりさせて、自分たちが聞いたこと、知ったことができる限り正確に伝わるようにすることが、正直な態度なんじゃないのかな。

人間の認識には限りがある。どんなに事実を知ろうとしても間違いは避けられない。だからこそ、十分に知らないことは責任回避の理由にはならない。なぜなら「十分に知っている」状態は永遠に訪れないからだ。

表面では「なんだとか」という言葉の軽さに流されたとしても、ナレーションを聞く人の心の深層には、書き手の責任回避の意図は届く。責任回避をすることが書き手の狙いなんだから、目的はある意味で達成されているのだ。だから人々は心の奥底で、テレビはいい加減で無責任な情報を垂れ流すと思っているのではないか。実際、その通りなんだけどね。

このフレーズ、軽い話題で乱発されている一方で、事件報道などのシリアスな話題では使っているのを聞いたことがない。事実確認をした情報を伝えるのが建前だから、そうなるのだと思う。「深刻でまじめな話題」と「軽くて楽しい話題」にカテゴリー分けして、真実に対する態度を使い分けているということでしょうか。このフレーズを使う構成作家やディレクター、プロデューサーは恥ずかしいと思わないのかなあ、と聞く度に思う。

件のNatureダイジェストの記事で記者は

もし思考によって言語の堕落が起こるのなら、言語による思考の堕落も起こり得る

というイギリスの作家G・オーウェルの言葉を引用していますが、確かにこの手の言葉の誤用や語義に対するいい加減さは、人間に考えることをやめさせ、間違った信念を修正できなくしますね。言葉選びには気を配りたい。

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