たかをくくる

みくびること。油断すること。慢心すること。

大津波が来るはずがないとたかをくくった輩

2011年に起きた東日本大震災に伴う福島第一原発事故。現在、元東京電力幹部三人の業務上過失致死罪を問う裁判が行われている。事故当時、東京電力の責任者は記者会見で「想定外」と言い逃れして日本中の顰蹙を買った。しかし実際には東電社員から15メートル超の津波の可能性があるという報告を受けていたことが裁判の証言で明らかになっている。数々の警告に耳を塞ぎ、自分が会社にいる間には大地震など起きまい、津波など滅多に起きまい、万一起きても大した被害にはなるまい、と「たかをくくり」津波対策をしなかった結果の大災害。

かつてカール・マルクスは資本論に「我が死んだ後なら洪水が来ようと知ったことか。これが資本の哲学だ」と書いた。なんという人間の強欲、底知れぬ無責任。そして救い難い認知の歪み。今回は資本を体現するものたちが旨味だけ吸って逃げ出す前に津波は来た。しかし、彼らは言う。大津波が来ようと我関せず、と。シャレにもならない。

「高を括る」は正しいのか

ところで国語辞典ではこの句に「高を括る」という漢字が当てられている。いつだったかテレビのクイズ番組で漢字クイズがあり、「鷹」と答えた芸能人が不正解となった。正解は「高」だという。それを観ていて何か違和感があった。

高をくくる   たいしたことはないと思って相手をみくびることをいう。「高」は分量の「多寡(多い少ない)」にも通じるが、収穫高などの「高」。「くくる」は「括る」で、ひとまとめにすること。昔、武家同士の戦闘では、兵力はその領地の広さ及びその石数(生産高)に基づいていた。養える分しか動員できないからである。そこで戦闘に際しては、相手の領地の石数(生産高)を計り、その石高を括って兵力を割り出し、勝てる見込みがあれば戦いを仕掛けたのである。そこからもっぱら相手をみくびる意味で一般化して使われるようになった。

ここに引用したのは[三省堂ウェブディクショナリーことば百科]の説明文だが、他の語源辞典でもほぼ同様の説明がされている。多くの場合、語源には諸説あるものだが、この句に関しては、判で押したように同じ説明しかみつからない。こういう風に説がひとつしか見つからない場合はかえって真実性を疑った方が良い。

なぜ異説が存在しないのか。なぜ説明文に個性がないのか。もっともありうるのは、あるとき誰かがこの説を提唱したところ、他の人たちはその言説を吟味することなく正解と思い込み、そのまま鸚鵡返しに書いてしまった、というシナリオだ。ことばに関して権威があると目される人なり発行者なりが発表した場合、それを信じやすい。同じことを書くテクストが増えれば増えるほど、人は信用性が高いと思い込んでしまう。しかし、辞典に書いてあるからといって、その説明が正しいとは限らない。

わき道にそれるがついでに書くと、先の引用文で

「高」は分量の「多寡(多い少ない)」にも通じる

というのは読者を混乱させる記述である。なぜなら、そのあとの文章で、多寡がタカヲククルの語源に関わりがあるとは言っていないからだ。確かに「〇〇は××に通じる」類の言説を振りまく人は多い。日本人は駄洒落が好きである。だから、音が似ていることを理由に意味が通じると強引な説を唱えた人は世の中にいたかもしれないが、それをそのまま辞典の文に無批判に書いてよいものだろうか。重箱の隅をつつくならば、

にも通じる

の「も」。高という言葉には他にも意味の通じる言葉があるという意味になる。しかし、それは提示されていない。文章全体を通じて、考えた痕跡が乏しく、論理が粗雑である。およそことばの起源や意味を知りたいという読者の要求に真摯に答える責任ある姿勢が感じられない。これが本当にあの三省堂の辞典の一部なのか。

話を元に戻そう。

私は天邪鬼なので、皆が同じことを言えばいうほど疑ってしまう。

「たかをくくる」という慣用句の語源に関する説明には不可解な点が多々ある。

高(たか)の意味するもの

通説では、この慣用句の中のタカは「高」 である。

高(たか)には数量という意味がある。取れ高、取引きの高、売上高、といった使い方だ。戦国末期から江戸時代にかけて、土地の生産力を収穫が見込める米の「石高」で表した。石は重量の単位である[1]。通説は「たかをくくる」におけるタカとは石高の意味であり、戦国時代に敵国の実力を実際よりも低く見積もることを指したのだ、と主張するのだ。

しかし、ならばなぜ「石高をくくる」と言わないのかという疑問がわく。数量あるいは数量を推し量る意味の高は米の生産量だけに使われるわけではないのだ。

さらに、石高という言葉が一般化するのは太閤秀吉が検地を行なってからである。戦国大名が互いに覇権争いをしていた頃に、「敵国の石高を測る」ことなど、たとえ忍びを放って調べようともできようはずがない。

さらに言えば、石高は統計を取って集計して得られるGDPとは違って、見込みの生産力であり、実際の生産を表す指標ではなかった。ではなぜそのような指標が存在したのかというと、税金取り立ての基準として使われていたのだ。現代でいうと国税庁が発表する土地の路線価みたいなものか。そんなもの知ったところで敵兵力がわかるわけないでしょう。

そこで戦闘に際しては、相手の領地の石数(生産高)を計り、その石高を括って兵力を割り出し、勝てる見込みがあれば戦いを仕掛けたのである。

だそうです。だいたい、「石高を括る」って何だ?読者にしたらその説明をしてほしいのではないのか。因みに石数と表記しているのは石高の間違いであろう。石数は時計に使われるルビーの数を表す時に使うものだ。

ところで、高(たか)にはもう一つ語義がある。てっぺん、行き着くところ、ものごとの頂点といった意味だ。この意味での慣用句には「たかが知れている」がある。山の頂上が見えているように、ものの見極めや見通しが付いていることだ。

タカヲククルのタカがこの意味であるとするならば、石高をくくるというもの言いでないという理由にはなる。しかしそれでも疑問は解決しない。

“くくる”の意味の謎

大きな疑問は、ククルということばが何を意味するのかということだ。
大和言葉の動詞ククルは、物を紐のようなもので結紮(けっさつ)するという意味だ。漢字の括を当てて「括る」と書く。同じ発音の別の言葉は日本語にはない。

この慣用句に関する各種の語源辞典の説明では、「括る」に「まとめる」という意味があるという説明が、書かれている。確かに「くくる」には、文脈によっては「まとめる」という意味を内包している場合がある。例えば「収穫した菜っ葉をくくる」には、菜っ葉を紐で縛るという動作に「菜っ葉をひとまとめにする」という目的が内包されている。
ここまでは、それぞれの単語の意味の説明として間違ってはいない。

しかし仮にタカが石高=生産力であり、ククルが「まとめる」の意味だとして、どうして生産量を推測するという意味になるのか。前出の三省堂ウェブディクショナリーの説明によると、高を括る=生産高をまとめる、ということになるが、生産高をまとめるとは何かという肝心な点を説明していない。どの辞典もそれについて合理的な説明ができていないのだ。

ククルという動詞は、何かをまとめたり留めたりする目的をもって紐状のもので二つ以上のものを縛ることを意味するから、生産高を括るとは、二つ以上の生産地の生産高を一つにまとめてしまう、という意味になろう。

敵国齋藤氏の領地に潜んだ忍びが、田中村の石高は300石、川下村の石高は450石という情報を得て、帰国したとする。他の村落の生産高データはないので、田中村、川下村のデータを元に、齋藤氏の推定農地面積をかけて計算する。そして殿様に齋藤氏の領地の石高は一万石から一万五千石でござろう、と報告する。齋藤氏の生産高は過大評価される可能性も過少評価される可能性もある。よって、タカヲククルと実際の生産高=戦争遂行能力より過大な評価結果になり、不必要に用心したり怖気づいてしまう場合だってありうる。

戦争遂行の判断ということでいうと、戦国時代の諸勢力が敵国の生産力と自国の生産力を比較して、自国の方が高ければ戦争を決断した、という説明は史実に基づかないフィクションである。太平洋戦争でさえ、日本帝国はそんな判断をしなかった。むしろ、自国の生産力が乏しいからこそ無謀な領土拡大という非合理的な決断を下したのだ。戦争は経済活動の延長にあるが、経済活動自体、人間は多くの場合非合理的に振る舞うことが明らかになってきた。誰も損をしたいとは思ってはいないが、はたから見れば自ら損するような行動をとるのが人間だ。戦争も同様で、誰かは得をするだろうが、全体としてみれば非合理の塊だ。

辞典によっては「括る」の派生的な意味として「予想する」とか「見くびる」という意味がある、と説明しているものもある。しかし、用例としてそれらの辞典が挙げているのは「たかをくくる」のみだ。

⑤ 予想する。はかる。現代では多く「たかをくくる」の形で用いる。 → 高を括る
(三省堂 大辞林)

6 (「たかをくくる」の形で)程度を予測する。物事を軽くみる。見くびる。「ちょっとした傷とたかを―・る」(goo国語辞書)

ククルには予測とか推量する意味など本来ないと自ら表明しているのも同然。語るに落ちるとはこのこと。

さらに疑問は続く。標準的な説明では「敵の石高を見積もる」意味から「見くびる」という意味に転化したというのだが、論理が飛躍している。ククルという言葉に「実態よりも低く見積もる」とか「見積もりを誤る」という意味がないのだから、「見くびる」という意味になりようがない。

「高を括る」説は破綻している。そう考えざるを得ない。ではどうしてこのような強引な説明が蔓延しているのだろうか。

「高が知れる」という慣用句がある。山の頂上が見えているように、ものの見極めや見通しが付いていること。こちらの語源は明確で、疑問の余地はない。この句における高とは先述したように、物理的な高さからのアナロジーで、ものごとの頂点といった意味だ。どうもこの慣用句からの類推あるいは混同で、タカという言葉を高の意味と解釈して、高の字を当てて書く人が出てきたのではないか。当て推量による語義と関係のない漢字の当てはめ、当て字の一種である。元のことばの持っていたリアリティーが失われた時にしばしば起こる現象だ。そう推理する根拠として、国語大辞典言泉の次の記述を示そう。

高を括る いきつくところを安易に予想する。高が知れていると見くびる。

念のために書くが、クビルとククルは音が似ている上、括ると書いてクビルと読ませる例もあるが、意味は異なる。クビルは縊ると表記し、首を絞める、首を絞めて殺す、の意味である。ククルは何かをまとめたり留めたりする目的をもって紐状のもので二つ以上のものを縛ることである。

私の仮説

私はそもそもタカを高、特に石高と解釈したところにそもそもの間違いがあると考える。ここからは私の推論だ。

タカと発音する言葉には他に何があるだろうか。多寡、他科、貴、どれも意味が通らない。残る言葉は、鷹。

タカは鳥の鷹を指していたのではないだろうか。そう仮定するとすべての疑問が解消する。

第一、意味がすんなり通る。高はくくれないが、鷹ならくくれる。

第二、タカが鷹であると仮定すると、タカヲククルとは鷹狩りにまつわることばだったのではないか、という可能性が考えられる。語句というのは、仏教用語由来のものを除いては必ずといってよいほど、生活にまつわる具体性を帯びたものごとから生まれてくる。

たとえば、ミモフタモナイは「鍋に実も蓋もない」で、どうしようもない状態、話にならない状態を表すユーモアに富んだ語句だ。鎬(しのぎ)を削る、鍔迫り合い、鞘当ては刀による闘争や刀の扱いに関わって生まれたことば。三枚目、十八番は演劇に起源を持つことば、といった具合だ。タカヲククルも生活実感に溢れた具体性をもったことばでなければ、普及するはずがない。そう考えると、鷹狩りがことばの由来であったという可能性は一考の余地がある。

その昔、鷹狩りは武将の好みとする趣味であり、かつ軍事演習でもあった。徳川家康が鷹狩りを好んだのは有名な話だし、徳川三代将軍家光が江戸の西方に広がる武蔵野の草原に鷹場と呼ばれる将軍専用の狩場を設けて、なんども鷹狩りに出かけたという記録が残っている。

鷹狩りに出かける時、猟場に着くまでは鷹が驚いたり逃げたりしないように目隠しの頭巾を被せておく。鷹を休ませるときには移動式の止まり木に留まらせ、足に巻きつける足革という留め具に紐を結んで、紐を何かに結わえ付けておいたことだろう。これが「たかをくくる 」という行為であり、行為の結果としての状態であるとすると、素直に意味が理解できる。なかなかに自然な言葉の組み合わせではないか。

本来、いつでも鷹を放てるように心を準備状態に置くのが鷹狩りをするものの心得だ。しかし、猟場についても、まだ獲物は現れまいと根拠のない推量をし、鷹が逃げないように括り付けたままにしていれば、不意に現れた獲物をみすみす取り逃がすことになる。戦場に到着したのに刀の柄袋を取らないでいるのも同然だ。武士としては恥ずべきことであったに違いない。

現代に置き換えると、例えばテレビ取材スタッフが、現場に移動中、まだ取材が始まらないと「たかをくくり」、ビデオカメラにメディアをセットせずにいたところ、偶然思ってもみなかった事件に遭遇、慌ててカメラの用意を始めるも時すでに遅し、決定的スクープ映像を取り損ねる、といったところか。

ともあれ、鷹狩りの心得から「鷹を括る」という警句ができたのではないか。つまり元々は、事物は変転するものだという真理を知らずに油断する人の愚かさを象徴する句であり、敵を見くびるという意味ではなかった。

しかし、ことばの意味を辞書を引いて覚えるのは稀であって、文脈から汲み取られる割合の方が圧倒的に多い。要するに使われているうちにことばの意味は変容していくものだ。

慢心と油断はだいたい根拠に乏しい情勢判断から生まれるので、敵がいる状況で慢心する人物をさしてこの警句を使った場合があったかも知れない。そうした発話例を聞いた人が、相手の力量を低く見て安心する意味だと誤解していったとしても不思議ではない。

結論。「たかをくくる」は鷹狩りの鷹を繋ぎ止めたままにしておくことを意味し、そこから起こりうるリスクに備えない緩み切った態度を戒めることわざであった。

以上が私の推理です。これはあくまで仮説であり、証拠はまだないことを断っておきます。本当かどうかは、あなた自身の頭で考え調べて、ご判断ください。

今日の名言

教科書に書いてあることを信じない。本当はどうなっているのかという心を大切にする。本庶佑

注[1]:石という単位は重量単位ではあるが、米の体積を表すものとして代用された

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1件のコメント

  1. 2020年8月24日付け日経新聞夕刊の最終ページに連載の小説、朝井まかて「秘密の花壇」にて目にとまった言葉が「高を括る」でした。そこでは、このように書かれていました。
    「けど大坂は、滑稽本(こっけいぼん)や洒落本(しゃれぼん)なんぞ読み捨てられるもんや、文の芸の本流やないと、高を括(くく)ってました。」
    本当に「たまたま」ですが、この「高を括る」ということばに当て嵌める漢字は間違いではなかろうかといいう思いに取りつかれ、辞書やインターネットで調べて見ましたが、結果は先生が書かれた通りでした。さらにインターネットを検索したところ、齋藤先生の記事に遭遇した次第です。
    齋藤先生の書かれたことは全て納得のいくことばかりであります。「たかをくくる」とは「鷹を括る」と言う説がほぼ正しいのではと思いますが、1点だけ気になるところがあります。それは言葉のアクセントです。関東の言葉で話すところの「鷹」というアクセントは、「たかをくくる」という時の「タカ」とアクセントが違うのではないでしょうか?「たかをくくる」と言う言葉は漢文化からの外来語とは無縁だと思いますので、大和言葉由来であると考えます。つまり、漢字は後から当てたもので最初から漢字ありきではなかったはずです。これを前提とすれば、「高」も「鷹」、何れも私が普段話す時の「たかをくくる」とはアクセントが異なる様に思います。もちろん、大和言葉由来と言うのであれば、私の様な関東弁の者には何かを申す資格はありません。もしも、京都・大阪の方のアクセントで比較され、「鷹」と「たか」がほぼ同じであるということを教えて頂ければ、「鷹を括る」説の正しさの力強い説得材料になるのではないかと考えます。京・大阪の方のご意見をお伺いしたいと思います。

    匿名
  2. この慣用句に登場する「タカ」のアクセントの問題ですが、現代標準語ではうしろ上がりになるとされます。計量や見積もりを意味するタカ(高という漢字が当てられる)いうことばも、うしろ上がりです。一方、鳥の鷹は平板なアクセントがふつうです。この慣用句のタカが見積もり高を意味すると解釈されている現代では、そのようなアクセントが使われて当然でしょう。
    では京都大阪のアクセントに照らせばよいかというと、大きな問題があります。近畿地方のアクセントは近現代に大きく乱れているからです。したがって、現代の大阪人にこのことばのアクセントについて尋ねても、甚だ心許ない状況ですから、この問題に関する証拠らしきものは期待できないでしょう。
    もっとも、すでに江戸時代、井原西鶴の書いた本の中に、高をくくる という表記が使われています。これは標準的な解釈にとっては一つの補強材料となりえるかに見えますが、そもそも通俗本などの歴史資料の表記には当て字がたいへんに多いということに留意しなければなりません。
    さて、記事に書いたように、通説では たかをくくる は 高を括る であるとされています。私も、「たか」が数量を意味することば(売上高などの用語で使われる)である可能性を全面否定はしません。私の疑問の中心は、たか が高であるならば、では 「括る」 とは何を意味するのか?ということです。語源辞典などではそこのところが極めて曖昧にされています。
    仮に「高を括る」であるとするならば、それはかつて生活の中で行われていた具体的な行いを指していたはずです。
    しかし、現代に生きる私たちがこの慣用句の意味を理解しないまま漫然と使っているということは、もうその行為は死んでいるということであり、生活実感を伴わないということです。分からないくらいならいっそ使わない方がマシだなあと思ったりします。

    齋藤 咲平
  3. タカのアクセントについて訂正と補足。アクセント辞典によると、標準語では高は第一音にアクセントがくる、つまりカで下がる。鷹は第二音にアクセントがくる、つまりカで上がる。
    しかしこれは単独で発音した場合のことで、「高が知れている」という場合、今日ではカの方にアクセントがくる場合が多いようですし、「たかをくくる」のタカもアクセントに揺れが見られます。

    齋藤 咲平
  4. 『返って真実性を疑った方が良い』→『却って真実性を疑った方がよい』
    間違いを正す文章であれば、自身の文章もきちんとチェックなさった方がよろしいかと。

    匿名
    1. 漢字の間違いについてご指摘いただきましてありがとうございます。
      本文の該当部分を以下のように訂正いたします。
      『返って真実性を』→『かえって真実性を』

      齋藤 咲平

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