大坂なおみはO-ho-sa-ka Nao-mi!

10月20日朝、テレビをつけたらテニスプレーヤーの大坂なおみさんが真っ赤なドレス姿で映っていた。WTAファイナルズのセレモニーらしい。司会者が英語でO-ho-sa-ka Nao-mi!とコールしている。たしかに私の耳にはousakaではなくo-ho-sa-kaと聴こえた。すると耳元で、そうなんぢゃよ、おほさかなんぢゃよ。というしわがれた声が気がした。だれだろう。

名前の綴りで渡航しそこねかけた話

妻がパスポートの表記と航空券の表記の綴りが違うという理由で危うく飛行機に乗り損ねそうになったことがあった。妻はクレジットカードの表記をSaitouにしていたので、航空券にはSaitouと表記されていたのだが、パスポート取得の時にはSaitoと表記していた。私は昔からパスポート表記はヘボン式のSaitoだ。だから妻もパスポートの都合上Saitoになる。しかし、外国に渡航するときにはパスポートの綴りと航空券の名前の綴りが一致していないといけないのだ。このときは日本の航空会社の便だったので、なんとか処理してくれ、ことなきを得た。
パスポートのローマ字表記をこころならずもSakihei Saitoにしたわけは外務省のせいである。外務省がパスポートの氏名の綴りにヘボン式ローマ字表記を押し付けているのだ
みょうじと名前を逆さにしているのも外務省のせいだ。本当は外国でもSaitou Sakiheiにしたい。名前の順序がひっくりかえっているといごこちが悪くてしょうがない。日本人の名前は氏(うじ、または姓)が先頭に来るということをどれだけの外国人が認識していることか。
英米文化圏のほとんどの人々は、日本人が氏を先に名乗るという事実を知らない。私は海外のウェブサイトのサービスを利用することも多いが、氏-名の順序で登録すると、そのサイトから”Hey, Saitou!”と書かれたメールが送られてくる結果となる。そんな状況を作り出したのは、英米圏の人たちの傲慢ではなく、英米文化にひざまづいてきた日本の国家であり、その国家に教育された私たち日本人自身なのではないか。
中国、南北朝鮮両国も氏-名の順に言うのが習慣(氏-名の順に名乗る文化地域は他にハンガリー、ベトナムなどいくつかあるらしい)だが、国際的な舞台でもその順序で自分たちの名前を表明しているし、他の文化圏の人々からもその順序で名前を呼ばれている。ひとり日本人だけが名前の順序を逆さにしているのだ。オリンピックやノーベル賞で日本人が名前の順序を逆さに呼ばれるのを聞くと、なんだかアメリカの手下のような気分で恥ずかしくもあるし、居心地がよろしくない。

おおさかとおーさかとおうさか

それはさておき、大坂なおみさんのなまえの話に戻る。大坂(おおさか)も忍坂(おさか)もヘボン式でローマ字表記するとOsakaになってしまう。Osakaという表記を英米語圏の人はousakaと発音してしまう。
訓令式ローマ字表記ではオはo、ヲはwo、オーはô、オウはouと書いて区別する。オーをohと表記する例があるが、これは訓令式でもヘボン式でもなく、どうも野球の王貞治さんのユニフォームに書かれたものが広がったらしい。
大坂なおみさんの大坂はぜったいにousakaではない。おおさか、旧仮名遣いではおほさかである。だから、英語話者の司会者がo-ho-sakaと発音したのはまったく正しいのだ。
ヘボン式でオオとオウとオを区別しないわけは英語話者がオオとオを判別できないことに由来するのだろう。英語話者はふつう、osakaのoを、oに軽くuに連続するように発音する。英語の発音は単語を表す一連の文字の前後関係からおおよそ決まっている。その規則をむりやり日本語の表記に当てはめようと苦心したのがヘボン式ローマ字表記だ。

ヘボン式ローマ字の限界

ヘボンはアメリカ人宣教師で、本名はJames Hepburn。幕末に来日し、ヘボン塾を開く。のちに明治学院へ発展させ、初代学長に就任した。明治学院は当時、全ての授業を英語で行ったという。卒業生には島崎藤村がいる。
長母音オーに近い発音をする英単語にはtalkやcallがある。ballは野球のボールで、オーに近い長母音だが、bowlはお椀のボウルで、アウに近い二重母音だ。決してオーとは発音しない。日本語化されるとボートと発音される英語のboat もアウにちかい二重母音である。Dotのoはオとアの中間の発音の短母音。オに近い音が短母音になるのは、後ろに/t/や/g/,/ck/などの破裂音が続く場合に限る。英語ではローマ字oはオに近い強い音、オとアの中間の弱い音、またはアに似た音となる。これらの英語の用例から英語圏の人間にオに近い音を想像させるには、oと表記するほかなかったと想像される。
日本語と英語は音韻体系がまったく異なる。英語の音が日本人に聴き取りにくいことの裏返しで、日本語の音には英語圏の人間には聴き取りにくい音も多い。ヘボンが日本語のローマ字表記を工夫した狙いは、英語圏の人間が日本語をローマ字で読めるようにしたいということにあり、日本人のためではなかった。言語において聴き取りと発音は表裏一体だ。日本人と同じ音を英米人が発音することは日本語を学習しない限りはどだい無理なので、発音できない音、聞き取れない音は無視されたのだった。
ヘボン式の最大の問題点は、二重母音と長母音を正確に表記できないことだ。「おう」も「おお」も「お」も英圏の人が区j別して発音できないのは仕方がないことで、かまわない。だからといって意味や名前が異なる言葉を同じ綴りで済ますのは、いかにも乱暴ではないか。外国人にとってはそれでよくても日本人にとってはそれでは困る。ヘボン式ローマ字表記されたパスポートを持って、万一渡航先で事故にでも会ったら、違う名前の別人と間違えられかねない。
訓令式は日本語を正確にローマ字で表記することを目指して、昭和二十年代に文部省が定めたという。しかしどういうわけか政府内でも足並みがそろわず、外務省はヘボン式を標準にした。このあたりは日本の役人の英米至上主義的な考えや、米軍占領の影響も感じるが、くわしいことは知らない。ご存知の方がいらしたらぜひご教示お願いします。

痩せてゆく日本語の音韻・長母音の罪

日本語の発音自体にも混乱がある。ひとつは長母音の氾濫である。大坂や大阪は、オーサカと発音する人が多い。「大きい」も漫然とオーキーィと発音する人が増えた。しかしもともとはohoと発音し、表記も「おほさか」「おほきい」だった。そのうちにhが取れてオを二回続けて発音するようになった。おおさかという文字の通りの発音で、完全な長母音ではなく、オオと発音する。しかし長母音化すると、オオもオウもオヲもオーになってしまうのだ。
オウなのか、オオなのか、はたまたオヲなのかは、ことばの由来や意味に関わる非常に大事な区別だ。父さんはとうさんであって、とおさんではない。それをトーサンというように長母音で発音する習慣をつけてしまうと、その違いがわからなくなってしまう。数詞の十はとお、遠い近いの遠もとおだが、十はとを(towo)、遠はトホ(toho)が元の発音だ。その名残は現代の発話にもわずかに残っている。
たとえば数え歌で
 〽︎とおで とおとお つるっぱげ
と歌うとき、「とお」の発音はよく聞くと「towo」に近い。

サイトーさんでもサイトさんでもありません

むかし在籍していた会社の同僚で、私のことをサイトさんと呼ぶ人がいる。とにかく昔からそう呼んでいた。たいていのひとはサイトーさんと呼ぶ。私の名字はサイトでもサイトーでもないです。さいとう。
発音も仮名の通りにトウと発音するのが本当。細かいことを言うと、オとウを区切って発音するのではなく、「ウ」はオに連なるために弱めに発音する。

おうさかはおおさかではありません

因みに現代仮名遣いで「おうさか」と書く地名に逢坂がある。百人一首に
 これやこの行くも帰るも別れては
     知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸
と詠まれた逢坂は、京都から山科を通り近江つまり琵琶湖の方へ抜ける山道にある。発音はオウであるが、旧仮名遣いではアフとなる。アウは出会うのアウで、昔はアフと発音した。hが発音されなくなってアウとなり、アウからオウに音韻が変化したのだ。逢坂という地名に含まれる会うということばが歌の意味とリンクしていてるからこそ味わい深さを増すのだから、雑に「おーさか」などと発音してはいけない。

音韻は日本語のいのち

音は日本語の命である。ところが音のゆたかさとうつくしさがうしなわれるばかりでなく、実用上も言葉を耳で聴いて区別することが困難になるので、聞き間違いや勘違いしやすくなったり、新しい言葉を作るのが難しくなり、会話で意思を通わせる困る。現代日本語(ここで言う日本語は標準語。方言によってはもっと豊かな音を保っている方言もある)は音素の数が少ない。痩せ細る一方なのはさびしいかぎりだ。
ジとヂ、ズとヅ、オとヲ、ガとンガ、のちがいがあいまいにされ、国語審議会の主導でヂもヅも極力使わない方向に進んでいる。

づは、ずではありません

たとえば地図。現代仮名遣いではチズで、図はズと発音する人も多くなっているが、私はチヅという発音するし、そう発音している人もまだ多い。国語辞典を引いてもらえばわかるが、旧仮名遣いでは図の仮名表記はヅだ。おなじ音じゃないの?と思われる方も多いと思う。しかしズとヅは異なる音なのだ。ズはzuだが、ヅはdzuとなり、/d/の音がする。舌が口蓋に当たり、空気がそのすきまを通り抜けるときに舌が振動して発生する破裂音がヅだ。これにたいして舌が奥に引っ込んで空気が咽喉で震え、口腔内に反響して発生する音がズである。まったく違う。両者の音の違いが聴き分けられないようでは、英語や中国語の習得も叶わないだろう。
ヅをズと表記することは、ことばの意味に混乱をもたらす点でも問題だ。たとえば、試しにパソコンやスマホで「きづく」と打ってみてほしい。「気付く」と変換されるはずだ。しかし、キヅクという単語はもうひとつある。「築く」だ。今では読み仮名を「きづく」と書くと不正解とされてしまうが、それは国語審議会が決めたこと。歴史的にはきづくと書いてきたので、こちらの方がむしろ正解である。きずくは発音の上でも意味の上でも間違いだ。
どうしてそう言い切れるか。まず国語辞典を引いてみれば、旧仮名遣いで「きづく」と書いてあるのはわかるだろう。なぜ「きづく」なのかというと、意味の上では「築く」は木・突くからきたことばであるからだ。杵(キネ)つまり太い木の棒で土を突いて固め、城や堤などの土木建造物をつくることが築くの意味である。関連語に築山があるが、人間が土を盛って木で突きかためて作った山がツキヤマである。筑紫はツクシまたはチクシ、筑波はツクバ、など論拠を上げればきりがないが、いづれもツまたはチと発音する。ツが濁ればヅである。きずくという表記を正解としてしまうと、それらの豊富な日本語の名称との関連を断ち切ってしまうのだ。名だたる人一倍日本語を愛する国語学者の方々が時間をかけて討論してきたであろう国語審議会。なぜこのような乱暴な改ざんをおこなったのかツクヅク理解に苦しむ。
今こそ問いたい。地震と自信の区別もできず、良い子をよゐこ、おたくをヲタなどと書いて悦に入り、やれ英語教育だのやれ国際標準だのと右往左往している日本人のなんと多いことか。

○コちゃんに叱られる

国語審議会の言い分は多くのひとがヅと発音しなくなり、濁音としてヅの代わりにズが残った現状に合わせたから、というのだが、そもそも国家が学校教育で指導しなくなった結果、使えなくなった、ということではないのかと疑っている。
たしかに旧仮名遣いには現代の発音とかけ離れているものもある。たとえば「てふてふ」。蝶々のことだ。これなどは現代の発音に合わせて表記した方がよいだろう。しかし、これは極端な例で歴史的仮名遣いとよばれる。地図をちづと書かずにちずと書けば、図の音の響きを間違って表記することになるし、鼻血をはなぢと書かずにはなじと書いては、血の意味が失われてしまう。音を間違える人が増えたからといって、ことばの意味を無視してかなの書き表し方を変えてしまい、その結果としてかつてあった音を失わせてしまってもよいものか。
国語審議会の原則を貫くと、「つづく」が「つずく」になってしまってもよいということになる。さすがにこれには反対論があったのか、例外として残されている。

いいかげんな長音の害

長母音「おー」は日常会話に現れることはあるが、もともとは雄叫びなどのことばにならない発声にしかあらわれない。現代日本語で、単語の中に出現する長母音「おー」は「おほ」の/h/が発音されなくなった「おお」が長音に変化したもの。いっぽう、二重母音「おう」は漢語由来の語に頻出する。能、農、層、郎、など数えあげればきりがない。音読みの等も湯も党も当も東も全てtou。なぜこんなに同じ音の漢字があるのかと不思議に思ったことはないだろうか。
わたしは現代中国語のピンインについてはくわしくないが、NHKの中国語講座を聴くと、同じアの音にもいろいろあるのがわかる。中国語は音の上がり下がりの違いでも言葉を区別している。日本に輸入された漢語も、日本語化が進む前は、もっとゆたかな音韻をもっていたと考えられる。むかしは漢語の原音のちがいによって「たう」とか「たふ」、「とう」と発音していたのだが、時を経るに従って「とう」という一種類の平板な発音に取って代わられてゆく。さらに現代では「とう」を「とー」と発音する傾向が著しい。じつにテキトーである。それとひきかえに同音異義語が激増するという、実にこまった事態になっているのだ。前後の文脈で正しく判断できるとは限らない。耳で聴いてもわからないというのは、会話に使える生きた言語としては、問題大ありである。
あーとかおーとかえーとかいった長くのばす音がものすごく増えた問題には、英語由来の外来語が増えたことも関係している。実は英語、長母音は意外に多くない。日本語化した英語であ行の長音で表記していることばは、その多くが母音+rで、ネイティブはrさえわずかにしか発音しない場合が多い。長音ではないのだ。また、お行の長音で表記していることばの多くが、ほんとうはオウとかアウに近い二重母音だ。それがどういうわけか、日本語化すると原音にはない長音に変わるのだ。耳から聴く英語と日本語化したことばのずれがあまりも大きすぎる。もうすこし原音に近づけた発音にしないと、日本人の英語学習にも悪影響が大きいと思う。

今日の結論

ぼーっと発音してんじゃねーよ

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