縦書きで横書きデザインの“引用符”をどうあつかうか?

最近、他人の書いた文章を打ちこみ、縦書きレイアウトの文書にする機会があった。原稿は横書きで、ことばを“  ”でかこんだ箇所があった。文章を読んでみると筆者はその箇所を注意喚起したいのだと想像される。「 」(名称はかぎかっこ)で囲んである箇所もあり、こちらも注意喚起の意味合いで使われているようだ。編集者の権限で、かぎかっこに統一させてもらった。そうした場合に、どのような記号を使うべきだろうか。

2007年7月Gihyo.jp(コンピューター関連の書籍を出版している技術評論社のウェブサイト)の過去記事に、たて書きではダブルミニュート(〝〟)なる記号を使うと書いてあるのを見つけた。よこ書きであればヨーロッパ言語と同じダブルクォーテーション(“”)をもちいるが、たて書きのばあいはそれとことなる字であるダブルミニュートにせよ、というのだ。

日本語の文章表現に使われている引用符はくせもので、注意が必要だ。

というのは、新聞では、引用符を使う場合には原則として「 」、『 』を使うのがふつうだからだ。そして「どうしても必要な場合に限って」〝 〟を使うとされている。このことは共同通信社発行の『記者ハンドブック』に書かれていて、同書では〝 〟の乱用を戒めている。その「どうしても必要な」ばあいとは、引用符の中にさらに引用符をつけるばあいで、たとえば次のような使い方だ。

例 姉は「昨夜、弟は〝すぐに帰る〟と言って出かけた。変わった様子はなかった」と語った。

しかし、じっさいには次のような使い方もよくおこなわれている。

例 大統領は枡席に設けられた〝特等席〟から相撲を観戦した。

こちらの使い方では、言葉を引用しているわけではなく、記者自身が特等席ということばを与え、皮肉を込めて使っている。「」を使うと引用と受け取られる可能性があるので、文字通りに受け取らないようにあえて〝 〟を使い、読者に注意を促している。

ともかく、縦書きでは“  ”のかわりに〝 〟記号を使う。Wordなどを使った文書作成では、“  ”をそのまま縦書き文書にすると表示がおかしくなるのだ。

しかし、この記号をキーボードから入力するのはわずらわしい。記事では、マックのばあいに文字パレットを表示させてマウス入力するという手法を紹介しているが、この記事はやや古く、macOS Mojaveでは、文字パレットは文字ビューアに変更されている。文字ビューアを表示しても初期状態ではダブルミニュートはみつからない仕様になっている。表示させるには、「リストをカスタマイズ…」オプションで記号グループの「句読点-すべての句読点」にチェックをいれる必要がある。

調べたところ、かな漢字変換で「かっこ」と入力してやると変換候補にあがることがわかった。これはマックでの解決方法だ。

これでとりあえず入力することはできた。しかし、“”と〝〟は別物だ。文字を書き進める方向のちがいによって、ことなる記号を割りあてるというのはいかにも不自然だし、すでに作成された文書を縦書きから横書きへ、横書きから縦書きへと、たがいに変更することを想定しているとは、とても思えない。

しかも、見ためがにているから混同しやすい。ことなる言語で書き分けるならともかく、同じ言語体系であるのに、それらを横書きと縦書きで使いわける、という説明にはどうも納得がいかない。

そこでさらに記事を検索すると、組版の専門家が書いた次のような記事を見つけた。

ダブルミニュート、ダブル引用符 括弧類その2  【日本語組版とつきあう12】ダブルミニュート、ダブル引用符、山括弧、きっこう(亀甲)の使用法, 小林 敏(こばやし とし), 掲載日:2012年07月10日

(引用ここから)

縦組でダブルミニュートを使用した原稿を横組で表示する場合には、どのように考えたらよいであろうか。

方法としては、次の3つが考えられる。

1 山括弧(〈〉、《》)など、別の括弧に変更する

2 JIS X 0208の考え方に従い、ダブル引用符(“”)に変更する

3 ダブルミニュート(〝〟)のままとす

その原稿でどのような括弧類が使用されているか、ダブルミニュートや他の括弧類がどのような意味で用いられているかを確認し、その上で判断する必要がある。いずれにしても、どの方式も一長一短がある。

括弧の使用法としては、絶対のルールはない。しかし、それなりのルールはあり、読者は慣習ではあるが、そのようなルールに慣れている。そこで、括弧の使い方としては、一般的なルールに従うことが望ましい、といえよう。

中略)

ダブルミニュート(〝〟)は、前述したように主に縦組で使用するので、横組にはなじみにくという問題がある。

また、ダブルミニュートを横組にした場合に、字形の向きも問題になる。図1にダブルミニュートを縦組と横組にした場合の例を示す。字形をどのような向きにしたらよいかは、意見の分かれるところである。

(引用終わり)出所 公益社団法人日本印刷技術協会
https://www.jagat.or.jp/past_archives/content/view/3736.html

どうも印刷業界でも、この類の記号のとりあつかいには困っている様子がうかがえる。『日本語表記ルールブック 第2版』(日本エディタースクール編、2012)にはかぎ、かぎ括弧(「」)の使い方として「会話,強調,注意を引きたい語句,引用文などをくくる.横書きでは,この場合にコーテーションマークを使用する場合がある」とあるものの、(〝〟)については、その他の項目に「縦書きの場合のみに使用」と書かれているだけで、どういうときに使うのかについての言及はない。

さらに調べると、レファレンス協同データベースで「縦書きのとき、会話や引用で使う記号「ノノかぎ」について調べたい。」という質問に対する、つぎのような回答を見つけた。

(引用ここから)

句読点、記号・符号活用辞典。 小学館辞典編集部/編 小学館 2007.9811.7

※p.106-107

    「ダブルミニュート(和製語 英double + 仏minute)」の項に意味、用例、IMEなどによる「入力方法」などあり。

      「ノノかぎ/ちょんちょん括弧/ひげ括弧/鷹の爪/猫の爪」などとも呼ばれるとのこと。

   なお、

    p.107-110「ダブルクォーテーションマーク」の項に

     「和文で、「〝」や「〟」(ダブルミニュート)に代えて日本語の引用符として使われる。」 という説明あり。

(引用終わり)レファレンス協同データベースより
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000103660

「〝」と「〟」は、出版印刷業界でさえ決まった名称がないくらい、一般に浸透していないらしい。また、“”と〝〟のどちらを本則とすべきなのか、基準が定まっていないこともわかる。

なお、先の引用文には、いわゆる半角英数字と全角のラテン文字と数字が混在している。横書きではそれときづかないが、縦書きに変換すると、たとえば「句読点、記号・符号活用辞典。 小学館辞典編集部/編 小学館 2007.9811.7」の箇所の、出版年月は全角数字であるし、図書の番号は半角であり、「p.106-107」のように、ページを示すpは全角、ページ数は半角になっている。この引用文が国立国会図書館が全国の図書館と協同で構築している、調べ物のためのデータベースであって、筆者や運営者が日本語の取り扱いにかけて十分な知識をもっているはずであることからみても、興味ぶかい。

話しを元に戻そう。右から左に行が進む縦書きを前提とし、文字送りの割合を一定にした近代日本語の組版に、上から下に行が進む左横書きを前提とし、文字幅が文字によってことなるラテン文字や算用数字をひとつの行におさめるため、先人はつぎのような工夫をこらしてきた。

  1. ラテン文字や記号を縦書き文に合わせてデザインしなおし、漢字やカナと同じプロポーション、同じ向きにして組む
  2. ヨーロッパ言語の単語や文を90度右に回転して行に挿入する

さて、ウィンドウズ10やマックOSは、ラテン文字などの横書き文字を90度右回転して縦書きの行に組みこむように設計されている。一方、引用符“”は現在ではコンピュータの中でラテン文字としてあつかわれる。これはおそらくユニコードの設計にそったものだ。そのため、一般的なワードプロセッサーで文章の方向を縦組みにすると、引用符“”が90度ねた形で表示される。なお、Microsoft Wordでは2019年7月現在、日本語縦書きレイアウトにしたときに引用符“”が90度ねないで表示されるようになっている。この仕様変更は縦書き論文を書く文系のひとたちから「ヨーロッパ系言語の文を引用するのに引用符が90度ねないのはありえない」と不評のようだ。

本来であれば、最終的な表示形態が縦書きなのか横書きなのかを意識することなく、書き手が書くことに集中できることがのぞましい。しかし現状では、横書きの文書を縦書きにすると、引用符が書き手の思った形式にならない。そうかといって縦書きの引用符代替物である「〝」と「〟」を使用すると、今度は横書きのときに「〝」と「〟」の表示がうつくしくない。引用符に変換するか、横書き用の「〝」と「〞」にに変更するか、あるいは何かしらのかっこに変更するほかない、という厄介な事態になっているのだ。

約物の問題の背景によこたわるものとは

そもそもクォーテーション記号とはどのような記号なのか。印刷で、句読点や疑問符(以上は手書き文でもよく使われる)、かっこ類・圏点(もっぱら印刷用の記号)など、文字や数字以外の各種の記号を記述記号もしくは約物(やくもの)という。英文においては、約物の種類と使いかたがはっきりと決まっていて、ほかの人物の発言やほかの文章からの引用を示す目的で、主として特定の単語や文字列をかこむのに‘’を、特定の文をかこむのに“”を用いる。日本語活字文化で発明された「」は、‘’と“”の両方の代用物としての役割を果たしてきた。だから、本来は日本語文においてはクォーテーションを使う必要はない。もし特に強調したいのであれば『』や《》を使用すればよいし、実際にそうしている筆者は多くいる。

もともと、ダブルクォーテーションマークや疑問符、感嘆符などはラテン文字の体系に組みこまれたものであり、日本語の文字集合にはなかった。それを日本語の印刷文字体系に組みこんだひとびとは、記号を使うことで表現力をまそうとかんがえたのだろう。そうした傾向はワープロの登場でさらにつよまり、本来の文字以外の記号が爆発的にふえた。

フォントが提供されれば、その中に入っている多彩な記号類をおもしろがって使うひとが出てくるのも当然だ。新聞社などには文字と記号の使用に独自のルールはあるものの、文字と記号をあつかうための日本社会全体に共通した規則はない。句読点でさえ、横書きの場合は「、。」「,。」「,.」「, .」の4通りある始末。いまだに統一されていないありさまだ。

規則が定まっていないと、各自が好き勝手にふるまうので、校正をになう編集者や出版人の負担は重くなってしまう。日本語の文字表示には定まった規則、つまり正書法がない。しかし、それが日本語をあつかう上でたいへんこまった問題だということを意識しているひとは少ない。書きかたなんて個人の自由。好きにさせろ。むしろそうおもっているひとが多い。

わたしはというと、いまの書きかたの主流には満足していない。不合理な点が多いし、未整理なことも目立つからだ。

縦書きをこれからも続けるのであれば、記述記号の使いかたをはっきりさせて、横書きでも縦書きでも同じ書きかたに統一する。使用法の重複する記号は整理するほうがよいとおもう。

全角英数字という鬼っ子

ところで、コンピューターが文字を処理するには、文字それぞれに特定の番号を割りふる必要がある。これを文字コードという。本来文字と文字コードは1対1の対応関係にあることが求められる。このばあいの文字とは、抽象的なものであって、具体的な文字の形の変種やフォントではない。たとえばひらがなの「あ」という文字の見ためは書き手やデザイナーによっていろいろだが、アという発音に対応する同じ文字として認識するだろう。これはひとが文字を認識するときの原理だ。こういう抽象レベルのひらがなの「あ」はユニコードではU+3042に割り振られている。このように1対1対応であれば、コンピューターで言語をすっきりと処理できる。もし、「あ」を表す文字コードがいく通りもあったり、逆に一つの文字コードに異なるいくつもの文字が重複して割り振られたりすると、いわゆる文字化けが発生する。

この考えでいくと、感嘆符「!」も特定の文字コードと1対1対応であるべきだし、引用符「“」に対応する文字コードもひととおりでないといけない。

しかし、コンピューターが文字処理に利用されはじめた当初は、処理能力に制限があったせいで日本語の処理系はアメリカ英語の処理系と整合性がなかった。

そんな状況があったにもかかわらず、少しコンピューターの能力が上がると、日本の技術者はアメリカ英語の処理系であつかう1234567890abcd…..xyzのほかに1234567890abcd….xyzという、「もうひとつの数字・ローマ字」を生み出してしまう。「全角英数字」だ。そしてアメリカの技術者が文字コードを定めた、もともとの123…xyzのほうは「半角英数字」という名で区別されるようになった。

両者はひとが解釈する意味のレベルでは同じはずだが、日本語対応パソコンでは見ためがことなるようにデザインされた。つまり、文字の意味ではなく見ための違いにもとづいて、文字を2セット作ったのだ。これは文字を抽象的な意味のレベルで特定の文字コードと1対1に対応させるという考えに反する。

しかも、ことなる文字コードが割りふられているから、全角のAIUはコンピューターの中でいわゆる「半角英数」のAIUとは別の字として処理される結果となる。このようにややこしいのにもかかわらず、どちらか一方を採用するということをしないで、日本工業規格は両方とも使うことを承認してしまった。

全角英数字が誕生した背景には、コンピューターの処理能力もメモリ容量もなにもかもがおそろしく低かった時代で、使えるフォントが2、3種類しかなかったという事情がある。パソコンにフォントデータを置くと処理しきれないので、プリンターのなかにフォントが仕込まれていたのだ。

当時はまだ、パソコンでグラフィックやテクストを自由自在に表示することができなかった。そのために苦しまぎれに考え出されたのが、正方形に近いマス目におさまる漢字やかなに合うようにデザインされた「ローマ字・数字」だ。文字のよこ幅がどうのこうのというのは、単なるみためのデザインのうえの話であったはずだが、それをもとからある数字とローマ字とは別の文字として規定してしまった。

そのために、数字を数値計算に使うときと日本語に数字をつかうときとで、別の文字を入力する必要がおきてしまった。日本語文の中でローマ字(ラテン文字)を表示するときにも、外国語を表示するときとはわざわざ違う文字をつかう、という、たいへん困った事態が生まれる。AとAが違う文字であると見分けるのはむづかしい。人間の仕事を助け、楽にするためにあるコンピュータの設計としては、まったくおかしな決定をしてしまったのだ。

全角英数字に象徴される日本社会の不合理さ

このように、全角英数字という鬼っ子は結果としては日本社会で言語のコンピューター処理をいたずらに複雑にしただけだった。当時、コンピューターをつかう意味が理解できないひとびとには、まだデータを処理するという観点はなかったといえる。見た目のよさにまんまとだまされたのだ。

しかし、どういうわけだか、40年経っても日本社会にこうした不便を変えようという機運がおこらない。これはじつに不思議なのだが、思うに、これも日本がここ30年間、生産性を上げることができていないことにつながっているのではないだろうか。

何も、これが原因で生産性が上がらないと言っているのではない。こうした問題をそもそも作り出したこと、そして、その過ちを過ちと認識することもなければ、改善する必要があると思うこともなく、見て見ぬふりをして過ごしている精神におおきな問題がある、ということだ。

その結果、いまだにわたしたちは2種類の数字とローマ字を、あるときにはひとつの概念を示すものとして、またあるときはことなる概念を示すものとしてあつかっている。いつ、どの場面で使い分けるのか?使い分けるなら、かな漢字変換を利用しないといけないが、パッと見てかんたんに見分けがつくのか?コンピューターに触れる子どもたちに、自分でも半可通な知識しか持たないこの怪物の使い分けかたをどのように教えるのか?そのせいでいったいどれだけのむだな労力が日々、費やされていることだろう。

ウェブサイトで記入をうながされる場面では、住所の番地は全角でないとうけつけないというページも多い。同じページで電話番号は半角での記入を強制される。それだけで記入者はよけいな手間をしいられるし、まちがえてエラー表示がかえってくることもあるだろう。

「全角と半角」という概念が生み出した混乱は、まだある。JISにおいてもユニコードにおいても、全角のカンマおよびピリオドにはローマ字のカンマ・ピリオドとは別の符号(文字コード)が割りふられている。しかし、たとえば現在のMacの文字検索では、全角のカンマ・ピリオドを検索すると、ローマ字のカンマ・ピリオドもヒットする。検索機能は両者を同じ文字としてあつかうようにチューニングされているのだ。だが、ひとは文字コードで文字を識別しているわけでは、もちろんないから、部分的に全角文字を残したいという要求には、パソコンは答えてくれない。あちらを立てればこちらが立たず、というわけだ。

このように、全角半角の2種類の文字がある状況は、いまや日本語がコンピュータ空間に生き残るうえで死活的な問題になっている。長期的な見通しや理想のないまま、目先の利益だけでことを決めると、将来に禍根を残すという悪い例をわたしたちは間近に見ることができるし、その代償を払い続けているのだ。

ここには過去の遺物との整合性をとるという以外に積極的な意味はない。ただわずらわしいだけである。それでも日本語という閉じた世界にとどまるかぎり意思は通じるから、なんとかなる。コンピューターは全角英数字と半角英数字を違うデータとして受け取るのだが、プログラムを組めば同じ数字や文字としてあつかうようにすることも不可能ではない(めんどうだが、それはプログラマーのしごとだ。)

しかし時代がかわり、とっくのむかしに世界は開かれた。地球上のすべての言語と文字を統一してあつかえる環境を目指すユニコードが文字コード体系で主要な位置を占めるようになったいま、文字があらわす意味とコンピューターであつかう文字コードを1対1で対応させることが望ましいのはあきらかだ。

そのような見地に立ってみれば、かっこ記号について日本のユーザーを無視したかのようなOSのふるまいにも、合理性があることがわかる。要するに、アメリカで規定した文字体系の記号は基本的にそのようにあつかう。じつにシンプルだ。

同じ役割をはたす文章記号が必要なら、縦書き文化で育んだ文章記号を使う。そうすればのこる問題は記号あつかいするときのローマ字をどうすればよいのかだけになり、解決方法はずっと単純になるだろう。あるいはもっとかんたんに、日本語も思い切って左横書きに統一するかだ。

しかし、こうした見地は使い手と共有されていない。あまりに簡単に入力できるのが、かえって仇となり、ダブルクォーテーションマーク(“”、”)は日本語文章に安易に使われている。記号が入力できるから使ってよいというものではないのだが。

縦書きに別れを告げるのかどうか

ともかく、日本語文章の記号をめぐっては、首尾一貫した立場が欠けている。過去の慣習に引きずられてさまざまな表記方法が乱立し、どんな記号をどんな場合に使えばよいかという表記の規則は、新聞社や出版社にはかろうじてあるものの、そのほかの世界では極端にいえば個人の勝手にまかされているのだ。そのためにたいへんな苦痛を強いられている人が多くいる。このようにややこしい事態をまねいている根本は、コンピュータ処理を前提として、日本語の文字体系にラテン文字を融合させる方法が真剣に検討されていないことにある。

日本語が活字として表記され、ひとびとに読まれるようになったのは1870年代。活字に組んだときに文の区切りが把握しやすいように、漢字、ひらがな、カタカナ以外に句読点ができ、かっこ記号や傍点などの記号類が発明され、活字文化の発展がうながされてきた。

活字印刷文化はヤクモノという記号類を生み出した。それらのなかには、(、〔、:、{、〈などのように、ヨーロッパ諸語の記述記号をもとにして、漢字とかなの形態にあわせてデザインしたと思われるものが多くある。欧米の書籍や文書の翻訳に需要があったのだろう。主に横書き文で使われることが多いが、縦書き用の異型も用意されている。こうして、同じ役割をはたす記号が、横書き用と縦書き用の2種類作られ、使用されるようになった。

日本と同じく漢字文化圏にあって、縦書き(出版においては縦組み)であった中国と韓国は横書き・横組み出版にうつった。日本でも過去に、日本語文を縦書きで表記する方法をやめ、横書きで表記する方法に一本化するという改革案はあったときく。しかし、縦書き表記・縦組み文書出版を続ける主張は根強く、受け入られることはなかった。

日本語の新聞紙面は縦組みを基本にしている。文芸書は縦書きである。文庫文と新書はほとんどが縦書きだ。一方、自然科学系および技術関連の文書は横書きが基本だし、公用文書は多くが横書きだ。裁判の判決文は長らく縦書きだったが、2001年から横書きにかわったという。小中学校の教科書も、日本語(国語)をのぞいてはすべてが横書きとなっている。学術文書でも人文系はほぼ縦書きであるけれども、社会科学系は横書きと縦書きどちらにも一本化されていない。マイナーなところでは、映画やドラマの脚本、放送業界のナレーション原稿は基本的に縦書きが慣習である。ただし、放送業界でもスタジオ台本やロケ台本、構成台本といった文書は縦書きのものと横書きのものがある。

活字印刷文化の始まりからおよそ150年。文字をコンピュータで書き、保存し、表示することが一般化した。テキスト表現における印刷物の比重は低下し、だれもがデザインされた字を使って表現する時代だ。日本のようにこれだけ文字情報が氾濫していながら、言語を文字で記述するための適切なルールが整備されていない文化は、かなり珍しい。

いままでは出版・印刷業、コンピュータ関連などの、一部の専門家がこうした問題について知識をもち、組版やプログラムで対応して解決してきたが、そのような裏方の知識を日本語をつかうひと全員に求めることは、理にかなったこととはいえない。いまこそ日本語表記の混沌に形をあたえるときだ。

日本語文章に表記のルールを

日本語文章表記においては、表記方法の統一した規則を打ち立てることが、現在の、そして将来に渡る日本社会全体の文字コミュニケーションにとって大切だ。以下に書いた規則は、一つの案だ。

(1)横書きにおける句読点は「まる」と「てん」に統一する。自然科学系の学術文献においても同様とする。

(2)かっこ書きの記号は現在多数登録されているが、だれでも使用できる状態にある一方で、いかなる場合に使うのかという、文章を読み書きする上での基本ルールについては取り決めがない。一部のビジネス文書では見栄えをよくするなどの目的で乱用されている。この状況を改め、ガイドラインを設けるとともに、かっこの種類を必要最小限に削減する。

・文中の人物の発話にはかぎかっこ「」を使用する。

・強調にはかぎかっこ「」または山かっこ〈〉を使用する。白抜きかぎかっこ『』および二重山かっこ《》は、文章冒頭あるいはサイトのわかりやすいところに、その意味するところについて特別な断り書きを明記しない限り使用しない。

・但し書きには丸かっこ()を使用する。

・【】は辞書の見出しに使用する。

・亀甲かっこ〔 〕はブラケットの代用としては原則として用いない。この記号を用いたい場合は、それが示す意味を、文章冒頭あるいはサイトのわかりやすいところに明示することをルール化する。

・引用符およびかっことして、クォーテーションマークおよびその代替物としてのノノカギは使用しないことを公式ルールとし、その使用を廃止する。

以上のルールは文章中に挿入される他の言語の表記には適用されない。

(3)文章の一部あるいは言葉を強調する目的で、日本語の文字にはボールドおよびイタリックを使用しない。文章の強調には縦書きでは圏点あるいは傍線を使用し、横書きでは下線を使用する。以上のルールは文章中に挿入される多言語の表記には適用されない。

(4)縦書き文におけるいわゆる縦中横は使用しない。

(5)丸囲み数字は使用しない。番号を振る場合には、かっこで囲む形式を推奨する。数字+ドットは推奨しない。理由は縦書き文にはふさわしくないから。

かな文字の長音記号ーは、漢字の一と見分けがつきにくく、横書きかつゴシック体の環境では、長棒、ラテン文字のハイフン(-)やマイナス符号(-)、とも判別しにくい。縦書き文では、長音記号とアラビア数字の1、ラテン文字の小文字のL、大文字のI、長棒が紛らわしい。このような環境で間違いなくテキストを入力し、あるいは判読することは難しいので、入力と判読の両面からなにかしら根本的な改革が必要だ。

コンピュータでの日本語処理はこうあらためよう

コンピュータでの日本語文字の処理には数十年の歴史がある。その中で、過去の遺産との整合性を取るために数々の不都合に目をつぶってきたが、今となってはそれがコンピュータを円滑に使用する上での足かせとなっている。今のうちに解決を図らないといけない。

(1)全角と半角の2種類の文字が並存する状況を改め、全角半角という概念を追放する。

縦書き文におけるアラビア数字およびラテン文字その他の横書き文字の表示については、OSと日本語フォントの設計で対処するべきことだし、それは十分に可能だ。具体的には、日本語フォントでラテン文字とアラビア文字の表示を縦書きと横書き双方で正しく正立させるよう、フォント自体に修正を加える。

どういうことかというと、例えば「OS」というラテン文字(現在の半角英字)を入力すると、縦書き文でも90度回転しない仕様に改めるということだ。1や2といった数字も90度回転しないし、縦書きに適した位置やプロポーションで表示されるようにする(このような横書きと縦書きで同一の文字が異なる外見に表示されるというふるまいは、現在でも句読点や括弧で実現できている。)こうした改変は日本語フォントのみの修正でよい。日本語文で例えば文中に英文を挿入したい場合は、英文のみ英語フォントにする。英語フォントは従来通り90度回転して表示されるだろう。

・ラテン文字およびアラビア数字については、現在のいわゆる半角英数字を使うこととする。

・全角英数字は、原則使用しないこととし、OS側からの入力手段の提供を廃止する。すなわち日本語入力プログラムにおいて、全角英数文字オプションをなくす。

・半角カタカナについても同様に、OS側からの入力手段の提供を廃止する。

・全角空白は使用を廃止する。スペースキーを打鍵するとスペースが入力されるように改める。

・同じく全角のコンマとピリオドは使用を廃止する。ただし過去の文章遺産を参照するために、文字コードとフォント自体は残す。

(2)段落とは、文章全体を構成する要素であって、ひとかたまりの意味を持った文の集合であり、単に見やすくするためにあるものではない。従来の慣習で、段落の区切りであることを明示するために1字字下げがされてきたが、英語では一文字下げるという概念はない(何インチ下げるという考え方)ので、ほとんどのワードプロセッサの段落設定は日本語表記に最適化されていない。そのため、ワードプロセッサで日本語文を書くときに使われてきたのが「全角」空白文字だ。空白文字は文字の頭を揃えたりレイアウトを整えたりする目的で使用する人も多くおり、それがかえって文の修正や再利用にとって非効率な結果を生んでいる。文字の頭を揃えるにはタブなどの記号を利用した方がよい。タブをつかうと、テクスト自体に構造をもたせることができるので、ほかの文書での再利用する場合に、有利だ。

一方、ネット利用が普及した今日では、段落区切りをわかりやすく示す方法として字下げを行わず、行間を広げる方法も広く行われるようになった。

そこで、手書きでなくコンピュータ入力される文では、段落の開始の字下げをするために空白文字を使用しないことをルール化する。文章の構造としての段落は、改行記号を入力することで明示される。視覚的に段落がわかるようにするには、ワードプロセッサ等の設定あるいはウェブサイトの文章ではCSSで対応する。こうすることで柔軟な対応が可能になる。

文書はみな論理的な構造をもっている。それは一定のルールをもうければ、Markdown記法やXMLがそうであるように、すべてテクストとして記述することができる。これからの文書はすべてそうして書くのが、作法になっていくはずだ。

その立場からいうと、Microsoft Wordの罪は重い。なまじ文字や文章を飾る機能が豊富に揃っているために、ひとびとはフォントの変更やらレイアウトに凝り、時間を費やしてしまっている。肝心の文章に構造を与えることは学んでいない。しかしこれではWordのほかの手段を使って文書を共有することが妨げられるし、ネットの中にテクストを置く利点も生かされない。

自分の仕事の領域でいうと、テレビなどの映像関連の台本が、Wordの表作成機能を使って書かれているのは、かなり馬鹿げている。

なぜというに、台本は映像と音声、タイトルなどが時系列につづられるものだ。だから映像(ト書きなど)と音声(ナレーションやセリフなど)、そのほかの情報はひとつの組み、ブロックになっている。ところが、日本の業界では、大抵、表に映像内容の列、音声・セリフ等の列、そのほかラップタイムなどの列を設けて別々の文字列として書いているため、例えばセリフを追加したりすると、ほかの列に空改行を追加するなどして、相互の位置を合わせなければならない。前後を入れ替えたりする場合にも、該当するブロックを丸ごと選択することができない、という問題がおこり、列の数だけ作業が増えることになる。

これは、作業の上のことだけでなく、そもそも、台本が映像と音、テクストなどが時系列に進むものとして表現されていない、という根本的な問題なのだ。

文には構造がある。そのことをコンピュータでどう表現し、どう処理したらよいか。それを考慮するかどうかで、苦しくもなれば、楽しくもなる。

ちなみにアメリカやイギリス、フランスのドキュメンタリー番組の台本やスクリプトを読んだことがあるが、日本のように表を多用することはなく、シンプルにタブで左右に振り分けて表現していた。要するに、タイプライターで書くように書いてある。書式はアメリカの劇映画のシナリオと大差ない。フォントは一つ。それで困ることはないのだ、と悟った。

文書の見た目のレイアウトに時間をかけて、それで仕事をした気になるようでは、いけない。

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