1964年秋の午後。まだ数も知らない小さな子どもだったわたしは毎日、家の白黒テレビ受像機に映し出される、東京オリンピックの競技を見ていた。
生まれてから東京の街中に住んでいたのだが、前の年に父の転勤で関西に移住した。だからオリンピックの熱狂はどこか遠くのできごとのようだった。

武道館で行われた柔道無差別級決勝。オランダのヘーシンクが日本の代表を破り優勝した。
柔道がオリンピック競技になったのは1964年の東京オリンピックが最初だ。開催国の利を生かして実現したのだが、盛り上がらなければ次回はないかもしれない。その状況で生まれた彼の勝利は、後の世界的スポーツ、Judoへの道を切り開くことにつながったのかもしれない。

しかしその一方で、柔道のスポーツ化と日本柔道界のオリンピック重視は、柔道が古来の柔術からますます離れ、ヨーロッパ的な価値観と身体操法に近づいていく結果も招いた。

近代柔道は素手または武器をもつ相手を素手で制する護身術や格闘術、逮捕術を元にしている。本来は体格の小さな人でも優位に立てるのが柔術の本領と言える。しかし、それは相手に当身を入れる(拳や手掌で突くこと。ダメージを与えるほか相手の体勢を崩す目的もある)とか、肘、手首の関節あるいは頭部を通して相手の身体を操作するなどの技術なしには成立しない。もしそれを試合で行うとすれば、相手に怪我を負わせないよう手加減しなければならない。関節の限界を超える前に動作を止める、当身は寸止めにする、その場合は当身を加えられた側は当たってなくとも当たったものとして振る舞うなどの理性が、試合をするものには求められる。

そこで柔道をスポーツ化するにあたり、そうした当身や関節を攻める技法は排除された。現代のJudoではまず組み合うことが要求され、相撲やレスリングに近いものになっている。崩しは相手を感じる精妙な身体感覚よりも腕力、体幹、瞬発力がものをいうようになった。だからJudoは基本的に体重制になっている。互角の相手の場合、その体勢を崩すことは非常に難しい。

しかし柔術では相手と触れ合う刹那に技が発動されるのが本来の姿だ。組み合ってからでは遅いし、相撲と違って組み合う必然性も乏しい。

また、Judoでは相手に掴まれることを嫌う人が多いが、柔術では相手が掴んでくる瞬間に相手を制するチャンスを見出す。掴まれた手は放っておいて仕掛けるとか、掴まれた手をむしろ離さないように操作することによって自分と相手を一体化し、力を伝達するという技がある。

両者とも柔術を心得ている場合、最良の方策はたたかわないことだ。だから本質的に柔術、そしてそれを元にした柔道はスポーツには向いていない。競技化することで失われるものもある。

今日、日本語でゲームといえばコンピュータゲームを意味するが、オリンピックは英語ではOlympic Gamesだ。つまりゲームなのだから、Judoのようになかなか技が決まらない場合、勝敗を決めるために点数制を導入することになる。そうすると、ゲーム運びの駆け引きが要素に加わり、本来の姿からますます乖離するのだ。


それはさておき、柔道をテレビで初めて見たわたしと二つ上の兄は、さっそく子供部屋で柔道のまねごとを始めた。組み合って大内刈り!ヘーシンクの袈裟固め!兄がわたしの腕をつかみ、背負い投げだあ!
畳が見え、天井が見えた。そこから記憶はない。

次に覚えているのはエチルエーテルの甘い臭い。エーテルは揮発性の有機物で、その頃は病院で麻酔に使われていた。病院のエーテル臭い廊下を歩き、検査室に入り、台にのせられたこと。そこでX線撮影をされたこと。検査の結果、腕の骨にひびが入っていることがわかり、添木をして腕を三角巾で釣られたこと。そんな記憶の断片が今も脳の中で時折り発火する。

母が笑って言うには、包帯姿を見た近所のおばさんに理由を問われて、
「わしゅれた」
と舌足らずに答えたとのことだが、まったく覚えていない。

ともあれ、こうしてわたしの1964オリンピックは幕を閉じたのだった。

1964年を境にして東京の姿は大きく変わってしまったらしい。らしい、というのは街の記憶に乏しいからだ。かろうじて覚えている東京の街の印象といえば、高い建物がほとんどなく、赤い電波塔がよく見えたこと、道を走る車が少なかったこと、道に都電が走っていたこと、山手線を越えて西へ行くと(今の中野区や杉並区)緑地が多くなり人家がまばらになっていったことくらいだ。東京オリンピックから2年経って一家が東京に戻ったときには、首都高速道路が川の上を占拠していた。車の数も増え、空は狭くなった。鉄とコンクリートを注ぎ込んでできた息苦しい街。そこでわたしは育った。


いま、日本でも世界でも東京オリンピックの開催に反対する声が高まっている。これ自体は新型感染症のパンデミックがおさまらない現状ではやるべきでない、というのが最大公約数の理由だ。

しかし、それに対して日本政府、JOC、IOCが中止を頑なに拒み、安全性についての第三者による検証も排除してまで開催に固執する姿が明らかになった。IOC幹部の発言には日本の主権をないがしろにする傲慢な態度が露わになり、背後にはアジアに対する蔑視もあるのではないかと疑いたくなる内容となっている。

口では安心安全を謳いながら、政府は新型コロナ感染症分科会による提言の受け取りを拒否し、尾身会長の国会答弁にも不快感を示した上、無視する姿勢だ。

開催都市である東京都の小池都知事も、開催へ突き進んでいる。

コロナ対策での失政によって支持を失っている政府与党自民が、オリンピックによって人々の関心がそらされ、人々が高揚感に包まれることによって政府への批判を忘れるという、国民の生活を犠牲にした自分勝手なシナリオを描いているだろうことは、容易に想像できる。

それも一つの大きな動機だろうが、それだけではJOC、IOC、東京都の思考停止ともいえる姿勢は説明できない。
彼らにとってオリンピックは宗教であり、なにがなんでもやらなければならない問答無用のイベントだ。生まれる前からあって、ずっと何の疑念も持たずにきた、絶対神なのである。成功と繁栄の神であるからこそ、思考停止となるのだ。

オリンピックは人間の美しさ、すばらしさを無条件に褒めたたえる祭典だ。力は善であり美であり、勤勉は徳であり、開発は希望である、という素朴で無垢な信念を梃子にして、人々を駆り立てる一種の宗教なのだ。国家を超えた友情、チームの団結、そして世界平和と平等。

その表の教義はマスメディアによって伝道され、大多数の人にとってなかなか否定し難いものがある。しかし、それはオリンピック教のすべてではない。オリンピックには裏の教典がある。

人間讃歌と表裏一体に国家への忠誠心と他国への敵愾心が人々の心に巧妙な演出で注入される。それはナチスドイツが主導した1936年のベルリン大会からだと言われている。オリンピアンにとってよほど心地良かったのか、基本的にナチスのスタイルはその後も踏襲され、エスカレートしてきた。個別のオリンピック選手同士は友情を育むこともできようが、オリンピック自体としてはそうはなっていない。

オリンピックにおける金メダルの数は国家の経済的な力を誇示するものと広く信じられている。実際、メダルの多くはアメリカ、中国、ロシア、ヨーロッパ諸国がさらっていく。所得の低いアフリカ諸国は少ない。
日本では長らく教育を通じて、欧米に追いつけ、という信念を植え付けられてきた。今でも日本の人々は他の国と自分の国を比べたがる。日本のスポーツでは未だに勝利することを至上命題として青少年に押し付けがちであり、楽しむことを否定しさえする。こうした歪んだ捉えかたが社会に広がることにオリンピックは一役買ってきた。日本でオリンピックのたびに金メダルの数にこだわる様子は異常である。

オリンピックはまた、巨大な利権のかたまりでもある。数百万の人が集まり、巨額のマネーが動く。そこに大手広告代理店が絡み、人々を洗脳する。テレビは視聴率を稼ぐことができ、人材派遣会社は低賃金の非正規労働者を動員して儲ける。オリンピック精神という教義を盾にして、ボランティアという名目を与えて多数の人をただ同然で働かせて恥じない。オリンピックはごく一部の者が富を蓄積する装置となっているのだ。

オリンピックはつつましやかな人々の暮らしをなぎ倒して実現する祭典だ。都市再開発計画が立てられ、会場確保の大義名分によって住宅の立ち退きを迫られる人もいる。税金を使って臨時の建築物がいくつも建設される。その分、大手ゼネコンは潤うが、社会に必要とされる施策は削られる。短い祭りが終われば、それらの建築物の維持コストは地元自治体のお荷物になりかねない。オリンピックの意義として精神的物理的レガシーを挙げた人がいるが、それは負の遺産だ。

オリンピックは自然環境をも破壊するようになった。4年ごとに違う都市で開催するというだけでも、たいへんな無駄が生じることは明らかだ。IOCは開催国の選定に当たって自然環境と調和することを求めているが、開催される競技の多さと観客の多さからいって、環境に負荷をかけないオリンピックなど、今の流れでは絵に描いた餅に過ぎない。多くの都市が開催に名乗りを挙げないのにはそれなりの理由があるのだ。

オリンピックはオリンピックに出場する競技者の希望と勇気と熱意と努力と挫折と栄光と喜びと失意をも搾取する。これらすべてはオリンピック村の支配者たちから疑うことを知らない素朴な人々に餌として振りまかれ、消費される運命にある。競技者は観客や背後の人々が自分を応援してくれることで幸福感と名声、連帯感、時には経済的な恩恵を得る。こうしてオリンピック村の支配者、人々、競技者の間に一種の共犯関係が生まれ、それらが渾然一体となって突き進む。それが今までのオリンピックだった。

オリンピックの神は実に貪欲だ。捧げ物として人間の感情と金を求める。その見返りは束の間の熱狂と高揚感、スポーツ資源の偏り、富の集中と貧困の進行、自然破壊でしかない。

パンデミックに世界が覆われた今、オリンピックの神への信仰が揺らいでいる。極端な富の集中と深まる貧困に引き裂かれた現代、トップアスリートのスポーツ祭典は今も希望として存在しうるのか。今一度考え直してみてはどうだろうか。

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