とうとう、オリンピックパラリンピックをやるらしい。パンデミックが再び勢いを増すなかで開催することについては、多くのひとが危ないと感じている。少なくとも今、やるべきではない、というのが最大公約数の世論だと思う。

一方で、オリンピック自体に対する批判も必要だろう。

20世紀になって、それまで生活に余裕のある一部の男たちの占有物であった近代スポーツの世界に、後から労働者や女性が入ってきた。かれらがそうしてクラブに入る過程で、スポーツの思想を作り直すことができず、自分たちも先行者の考え方に染まってしまった面があるように思う。

スポーツは一色ではない。競技によって国によって、異なる色彩を帯びている。例えば、イギリス発祥のゴルフやテニスは有産階級の遊びとして出発。広がるにつれて次第に競争性を高めていく。フットボールは町村対抗の祭りが起源の一つだと言われている。

日本で学校教育に体育を広めた教育者で、講道館柔道の創始者でもある嘉納治五郎は、スポーツを楽しみや遊びとしてではなく、むしろ体作りと精神練磨の手段と捉えた。体を鍛えることで精神が発達すると信じた彼は、のちにIOCの理事となり、1940東京オリンピック(戦争で開催されず)招致に奔走した。

オリンピックの思想は「より強く、より速く、より高く」だ。その背後には19世紀末から20世紀にかけた時代の、強国による植民地争奪戦が見え隠れする。ヨーロッパ、アメリカ、日本などの国家は強いからだを持った若い男を、戦争に勝つためにも、産業の労働力としても必要とし、教育者は国家に役立つ人物を育てることを目標に掲げた。そこで利用されたのがスポーツだ。歴史あるオリンピック種目には陸上、水泳、体操、射撃、レスリング、フェンシング、馬術があるが、それらはどれも、かつての軍隊の基礎的訓練に近しい性質を持っていた。

競争も、スポーツのひとつのあり方としてあってよいとは思う。しかし、それを絶対の価値観にすることには同意できない。そうした志向はとどのつまり、一部のエリート競技者以外は価値なしというようなものだ。実際、日本のメディアは勝者、それも自国の勝者、あるいはメダルが期待される、しかもスポンサーがついている特定の競技者をあからさまに贔屓して報道する。また、スポーツ競技者は大抵の場合、20代から40代で引退し、その後の向上がない。その枠組みでは女性や体格の劣る人、障がいのある人は評価が低くならざるを得ないだろうし、勢い、男女別、「正常」と「障害者」別、という区分けから抜け出すことができない。スポーツで競争に重きを置くことは、どうもいびつな感じがする。

スポーツにおける男女別は、ジェンダー平等を意識した現代ではかなり問題を含んでいる。先ごろ閉会した国会ではLGBT差別の解消に向けた法案が、自民党の中の強い反対で審議に至らず、持ち越しとなった。そのとき、自民党の山谷えり子議員が記者の質問に「アメリカでは女子のトイレに男性が、心は女性だからと入ったり、女子の競技に参加してメダル取ったりして、そういう不条理なことがある」と発言し、物議を醸した。「女子の競技に参加して」云々は、トランスジェンダーの女性陸上競技者のことを指しているのだろう。

実は、トランスジェンダーやテストステロン値の高い女性に対して欧米の一部の女性競技者が「不公平だ」とクレームをつけ、女の競技から排除しようとする動きがある。テストステロン値が高い人は筋力がつきやすい傾向にあるので、走ったり投げたりといった運動に秀でる可能性が高い。現在のIOCの規定では、テストステロンの高い女性は12ヶ月間一定水準を上回らないことを女子競技への参加条件にしている、という。無理矢理に、男女の区分けに当て嵌めようとしているわけだ。トロント大学名誉教授ヘレン・ジェファーソン・レンスキ(Helen Jefferson Lenskyi) は『オリンピックという名の虚構』の中で、「平常」からどんなに飛び抜けていてもウサイン・ボルトのような男性であれば賞賛されるのに、女性だと異常視し非難する、と国際陸連の男性中心思考を批判している。

性は女と男にくっきり二分されるものではなく、さまざまな色合いがあるのだ、というのが現在のLGBTQの考えだ。トランスジェンダーやQつまり男女という区分けに馴染まないひとびとには、いまの主流スポーツは居場所を提供していないように見える。オリンピックの目標がスポーツを通じて互いを理解し尊重し合うことにあるというのなら、競争と男女別は、その障害となっているのではないか。オリンピックを前にして、そんなことをふと思ったりするのだ。

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