義理の姪っこは猫が好きだ。ウチに来ると当家の猫たちを抱こうとするのだが、近づき方がわかっていないので、猫たちは警戒してしまい、なかなか成功しない。もっとも、そもそもアレルギーがあるから、近づいただけで涙が止まらなくなるのだが。

人をふくむ哺乳類のいくつかには、パーソナルスペースとよばれる心理的な空間がみとめられる。それ以上あいさつなしに近づいたら、不安を覚え、自分への攻撃意図ありとみなす領域のことだ(鳥でも互いに距離を取る行動が見られる。ただし大きな群れを作る種では、休息時には営巣時期をのぞいては互いの距離が近いようだ)。

たとえば人間であれば、個人差や場面による違いはあるが、おおよそ腕をのばした距離がパーソナルスペースの外縁だとされている。相手が見知らぬ人であったり、警戒すべき兆候がみられたら、この距離はずっと長く、腕の長さの倍くらいが限界になる。

他の個体に近づくときには、互いにあいさつする必要がある。親子きょうだい間でもあいさつは必要だ。

あいさつ行動の様式は学習によって獲得されるが、パーソナルスペースの感覚自体はもともと備わっているものだろう。

パーソナスペースを別の表現で置き換えれば、「マアイ(間合い)」がよいかもしれない。

武術や格闘技では「間合い」の習得を重視する。間合いは当然、相手が武器(になりそうな物)を持っている場合には、その武器の有効距離に応じて長くなる。間合いをコントロールできれば有利になる。

葛飾北斎「北斎漫画」より抜粋 

ほとんどの人は武術とは無縁に過ごしているが、間合いに無頓着では、自分の身に危険が及ぶことになるだろうに、と思う。

間合いの感覚を身につけていないと、犬や猫となかよくなるのも、むづかしい。かわいいからといって無遠慮に近づけば、犬なら吠えるし猫なら逃げる。それでも無視していきなり踏み込もうものなら、噛みつきや猫パンチで反撃される。犬には犬の、猫には猫の、礼儀がある。それにしたがって礼儀正しく振る舞わなければいけない。

人間だって原理はまったく変わりない。ところが、それが壊れているとしか思えない人が増えている。極端な例えだが、いきなりくっついて、無言で性行為に及ぶような不気味さだ。

たとえば、不意に真横から目の前30センチの近間を通り過ぎるとか、肩が触れそうな距離ですれ違う(しかもその行動をとるのが若い女性であったりする)。鉄道のホームで後ろを気にせず先頭でスマホに夢中なひとも。人混みの中を、声もかけず押し通るに至っては、まるっきり周りの人間を無視している。能面で黙っているから気味が悪い。

こうした現象はもしかしたら人口密度が高すぎる東京圏特有のことなのかもしれない。この異常な巨大都市空間においては、パーソナルスペースを確保しようにもままならないことが日常だ。そうした異常環境に慣れてしまうと、からだが発するメッセージに耳を傾けなくなる。

他人と接近しても不快感を自覚しないので、危険を察知する能力や他人の不快感を想像する力も培われないのだろうか。

こんなこともある。道に立っていると、歩いてきた人が背後すれすれを通り抜ける。最悪なのは自転車で同じことをするひとだ。どこのだれとも分からぬ他人が完全な死角に侵入するのだ。道幅は距離を取るのに十分な余裕があるのにも関わらず、なぜわざわざひとの後ろをすり抜けるのだろうか。帰ってその話を妻にすると、その人は前を通り過ぎることを失礼と感じて、後ろを通ったのではないか、という。写真を撮っている人の前を避けるのと同じ理屈だろうか。

私の感覚では、前を通られるのは問題ない。安全だからだ。逆に、後ろを通る方がよほど失礼だ。「後ろを取られる」という事態は、相撲やレスリングを見ればわかるように、武術や格闘技では非常に不利だ。それを仕掛けてくるということは敵意ありと受け取られてもしかたない。

葛飾北斎「北斎漫画」より抜粋 

ましてやひとの間合いに入るなど、もっての外だ。もし自動車を運転していて前の車の至近距離に詰めたら危険行為とされるだろう。それと同じことだ。

と、返したが、妻は、そう思わない人もいるのだから仕方ない、という。

こうした予想外の行動をとられると、身の危険を察知して背筋がゾクっとするものだ。

犬だったら反射的に噛みつくところだが、ニンゲンは身を翻すか、一歩前に出て距離を取るしかない。悲しいかな、現代社会ではどんなに相手の行動に非があっても、パーソナルスペースに無断侵入しただけでは攻撃とはみなされないからだ。

しかし、侵入を受けた側には、意識せずとも確実にストレスが発生する。大脳前頭前野が攻撃衝動に抑制をかける結果、脳内で攻撃衝動と逃避行動の間でせめぎ合いがおこる。これがストレスの正体だ。混雑した電車内や行列、車に知人と同乗するなどといった逃げようのない場面では、ヒトはストレスを受ける。

だから、他人のパーソナルスペースには一瞬であれ無遠慮に侵入しないのが、社会の一員であるためには必要なことだろう。

「北斎漫画」より「信州諏訪湖 氷渡」葛飾北斎  他人との距離を測りながら慎重に凍った諏訪湖を渡るひとびと

他人の後ろをすり抜ける行動のはなしに戻ると、若い時から、私は自分の真後ろに立たれるのをきらった。学生時代にある時、友だち数人が集まった狭い部屋で壁に背をつけるようにして立っていたら、友人が、

「おっ!さすがやなあ。オレの真後ろに立つな、か」

と言う。つづけてもう一人が、

「お前なんて呼ばれてるか知ってるか?ゴルゴ13やで。」

ゴルゴ13はだれかが不用意にも後ろに立とうものなら、たとえ相手が依頼主であろうと即、手刀か蹴りの一撃で倒してしまう。その後のセリフが、オレの真後ろに立つな、だ。

私はスナイパーではないから、さすがにそこまでいかないが、いくら知人でも、真後ろに立たれるのは生理的に受けつけない。友人たちはそれを変だと言った。私が敏感過ぎるのだろうか。

世の中、多数であることが正常とみなされる。正規分布でいえば、95%の範囲内が正常値、残り5%は「外れ値」、異常値だ。

いくら私のような少数の変人が、現代が異常だよ、と思っていても、多数の人が当たり前と考えるならば、そちらが正常で、私は異常、ということになるのだろう。

外国だったらスリや掻っ払いに注意しないといけないし、突然刃物や銃器で襲われる可能性だってあたまの隅に入れておく必要はある。日本はその点、これまでの数十年は安全すぎた。しかし、近頃は金目当ての凶悪犯罪が増えたから、安穏としてはいられない。

ネットの世界では見知らぬ他人を一方的に激しく攻撃したり、反対に連絡を取って危ない目にあってしまったりと、間合いをめぐる問題がおきているが、現実の人同士の距離感覚もかなりおかしい。

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