私の母は今年で80になった。誕生日の祝いもしなかったのが申し訳ないので,昨日様子を見がてら妻と二人で訪ねてみた。

聞くと一昨日,母の生家がある浜松から帰ったばかりだった。生家は明治のはじめから代々酒造業を営んでいる。古くは醤油を商っていたらしい。今は私のいとこが社長だ。

古い蔵を改造した販売スペースの2階がギャラリーになっている。そこで,お盆の時期にささやかな“展覧会”が開かれる。絵や書,手芸などの作品はすべて親類縁者の手によるもの。その準備作業を手伝ってきたのだという。

今年で6回目になるその展覧会は,なかなか顔を合わせることもない親戚が集まるよい機会になっている。出品者リストをみせてもらったが,私には類縁関係のわからない方もいる。母は昔から親類縁者について語るときは「○○ちゃん」などとと愛称で呼ぶので,書かれているお名前を読んでもピンとこない。おまけに私は名前を覚えるのが苦手だから困ったものだ。話を聞くうちに自然とあの頃のことを聞くこととなった。戦争で日本の一般人が殺された頃のことだ。

母が生まれた年は昭和9年(1934)。日本が中国に軍隊を送り込み,植民地化を進めていた頃のことだ。

1931年9月18日,中国の柳条湖で,日本の国策会社である満州鉄道の線路が爆破される事件がおこり,関東軍はこれに乗じて中国東北部を征圧する。「満州事変」だ。爆破は関東軍による謀略だったことが判明している。関東軍とは日本が中国大陸に置いた軍隊の名称だ。

翌1932年には中国東北部に「満州国」建国が宣言された。その権力中枢は関東軍が握っていて,実態は日本のかいらい政権だった。満州国は国際社会から承認されず,日本は孤立。国際連盟を脱退し,中国侵略の泥沼にはまり込んでいった。

母が生まれ育ったのはそうした時代だった。

真夜中の空爆

母の一番上の姉,つまり私の伯母はまだ元気で,今回の展覧会にも出品している。その伯母さんは戦争の末期に結婚し,平塚に住んでいた。結婚相手の伯父さんは大学を卒業した後,海軍に入隊していた。その伯母夫妻のことを「大恩人」と慕う人がいてね,と母は話を進めた。

その人(仮にNさんと呼ぶ)は伯母夫妻が寄宿する家の息子だった。1945年の当時,中学1年生だったという。家族は母親と姉が二人であった。

当時の平塚一帯には海軍火薬廠をはじめ重要な軍需工業施設が集中していた。伯父も海軍火薬廠で科学技術研究者として働いていたのだ。

1945年7月16日の深夜,平塚に米軍爆撃機の群れが襲来した。Nさんが母親に起こされて庭に出ると,照明弾が投下され,昼間のような明るさになった。

Nさんは近所のこどもたちをつれて海岸のほうへ逃げた。身重であった私の伯母はNさんの母親とお姉さん二人とともに逃げた。焼夷弾が投下され,街は真っ赤に燃え上がった。松林に避難したNさんたちのそばにも焼夷弾が落ち,6歳くらいの男の子の太腿を大きくえぐり取った。泣き叫ぶ子に対して,その子の母親はしっかりしろと叱りつけた。そして応急手当を済ませると,その子を背負って医者を探しに立ち去ったという。

空襲が収まり,Nさんが家に戻ると,街は一面あとかたもなく燃え尽きていた。伯母はNさん母子と一緒に逃げたが,Nさんのお母さんだけ途中で別れてしまった。消防団の人から装備が軽装すぎるから着替えろと言われて家に戻ったのだという。伯母たちは海岸に逃げたが,米軍戦闘機に機銃掃射を受けた。

お母さんは胸に焼夷弾が突き刺さって亡くなっていた。

それだけではない。お母さんが持っていた非常持ち出し用のボストンバッグが何者かに切り裂かれ,中に入っていた貯金通帳など全財産がごっそり盗まれていた。

Nさん姉弟は母を亡くし,住む家も何もかもなくした。

ともかくお母さんを火葬にしてあげたい。Nさんは思った。

トタン板を見つけて,お母さんの亡骸を横たえ,火をつけた。が,火の勢いが足らず,骨にはならない。仕方なく土葬にしたという。念を押すようだがその時の彼はまだ12歳だ。

そこへ伯父が駆けつけてきた。伯父はNさんを小田原に住むNさんの親戚の家まで送り届けることにした。

そこで伯父が取った手段はヒッチハイクだった。伯父は技術者とはいえ将校だった。「階級は大尉だからそれなりに立派な軍服姿でしょう。軍人が手を上げたらトラックは止まったみたいなのよね」と母は言った。

記録によると,このときB29爆撃機138機の編隊により投下された焼夷弾は447,716本,総重量1,173トンにのぼった。市の調査では死者は343人。

笑いながら子どもを撃つ

母の住んでいた浜松は1944年の11月から何度も米軍の空爆を受けた。米軍の戦闘機は地上近くに舞い降りては子どもたちにも機銃掃射を浴びせた。母は走って逃げた。母の友達は急接近する米軍機の操縦席の中に笑っている米軍パイロットの顔をはっきりと見たという。

家と工場は空襲の焼夷弾で焼けてしまった。

 

空襲は激しさを増していった。浜松の沖合には米軍の艦隊が停泊して艦砲射撃を始めた。死ぬなら家族一緒がいいということになり,浜松にいた母と叔父は残りの家族が避難している浜名湖の北側へ行くため,汽車に乗った。しかし,なかなか進まない。なぜなら汽車に対しても何度も米軍機が襲ったからだった。汽車はそのたびに止まり,母たちは客車の下に潜り込んで難を逃れた。まだ小学5年生だった。

父の場合〜東京大空襲

私の亡き父は東京の芝に生まれ育った。母より6歳年上で,戦中世代だ。しかし,戦時中の自分の身の上話は本人の口からは一度も聞いたことがない。

「芝の家はたしか空襲で焼けたんだよね?」

と母に聞くと,

「違うわよ。その前にすでに空襲に備えて区画整理で取り壊されてたのよ」

という。延焼を防ぐために日本政府の手で壊されてしまったのだった。しかし,米軍の爆撃は日本側の想定をはるかに超えていた。

1945年3月10日。東京を米軍が襲った。父が引っ越し先の五反田の丘から芝の家の方角を見ると,市街は赤く燃え上がっていた,と母に語ったということだ。このときの死者は8万人とも10万人とも言われる。未だに正確な数さえわかっていない。

東京大空襲

日本人が空襲と呼んでいるものは,およそこうしたものだった。日本本土の死者は33万人,被災戸数は全国の約2割に及ぶと推計されている。米軍による無差別殺戮。戦勝国であったために裁かれなかった戦争犯罪である。そして,裁かれなかった米軍はベトナム戦争,アフガン戦争,イラク戦争でも日米戦争と同じく民間人を殺し,都市を破壊してきた。

今回の展覧会に,伯父は平塚市の戦災記録を出品した。

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