大切なことなのか、どうでもよいことなのか。今すぐすべきことなのか、後ですればよいことなのか。気にかけつづけるべきことなのか、忘れたほうが良いことなのか。

いま、重症の歯周炎のように国の根幹がぐらついている最中、国会報道を押しのけて、一つの事件が注目を浴びている。大学アメリカンフットボール悪質反則を巡る事件だ。このタイミングでか。というのが最初に思ったことだ。私たちの生活に直接関わる重要な事柄から世間の目を逸らす役割を果たしている結果になっているのは、困ったことだと思う。

私には、この事件が最優先の問題だとは思えない。しかし、これが日本の社会というダムの底に溜まった汚泥から湧き起こった臭いガスだとすれば、おざなりな泥すくいで終わりにするのではなく、原因であるダムを取り除く機運になるならば、意味があるとは思っている。

ともあれ気になるのは、この騒ぎの中で肝心の人々がすっぽりと抜けたままであることだ。それは、アメフトをしている当事者の学生たちのことだ。

主体者が黙っている。すべては周囲の他人が決め、進めていく。若者は「大人」の庇護の対象であり、社会的に無能力者とみなされる。それが社会問題としてみたときの、この問題の深刻な一面だろう。

まだ語られていない、この側面について考えてみたい。

本題に入る前に、事件発生からの経過を時系列でまとめておく。

事件について

  • 2018年5月6日 関西学院大学と日本大学の間で行われたアメリカンフットボールの第51回定期戦で、関学大の第1攻撃の1プレーめに、日大の守備プレイヤー(ポジションはDL)が、ホイッスルが鳴りプレーが切れたタイミングで、パスを投げ終えてプレーから離れている無防備な関学QB(クオーターバック)に背後からタックルした。パーソナルファウル(反則行為)と判定された。その後、関学のQBはゲーム途中で負傷退場した。当該日大プレイヤーはその後も2度の反則行為を重ね、退場処分になった。
  • 試合後に内田監督が「あれぐらいやっていかないと勝てない。やらせている私の責任」(日刊スポーツ 5/6配信)とコメント
  • 5月9日 関東学生連盟理事会 試合のビデオを検証。公式規則第6章の「(無防備なプレーヤーへの)ひどいパーソナルファウル」に当たると判断。
  • 5月10日 関東学生連盟が当該選手を出場停止処分。内田正人監督には厳重注意処分。
  • 5月10日 関学アメフト部、日大アメフト部の部長・監督宛に文書で厳重抗議。
  • 5月12日 関学アメフト部ディレクター・監督が記者会見。テレビ・新聞で大きく報道される。
  • 5月15日 日大アメフト部から関学アメフト部へ回答書。
  • 5月16日 日大広報部、内田監督の話として、指導者は当該選手に反則行為を指示していないと説明。
  • 5月17日 関学アメフト部が記者会見。真相の究明を求める。会見では日大側からの回答書を公開。回答書には「指導者による指導と選手の受け取り方に乖離が起きていたことが問題の本質」と記されていた。

資料:日大アメフト部の回答書

  • 加害選手が被害者本人と両親、関学アメフト部ディレクターに面会し謝罪。
  • 5月19日 日大アメフト部内田正人監督が西宮市の被害者宅を訪れ、関学大アメフト部指導者も同席する中、被害者に謝罪。その後の囲み取材で、負傷させるよう指示したかという記者の質問に返答を避ける。同日付で監督を辞任。
  • 5月21日 被害者の父が警察に傷害容疑で被害届を提出。
  • 5月22日 悪質反則を実行した宮川泰介氏(日大3年)が本人の意志で単独記者会見し、反則行為を謝罪。以下会見の要旨
    • 監督、コーチから「闘志が足りない」と言われ、5月3日、実戦練習から外された。
    • 6月に開催される世界大学選手権の日本代表に選抜されていたが、監督から辞退するように言われた。
    • ゲームの前日、井上コーチから「1プレーめで相手クオーターバック(QB)を潰せば出してやる(と監督が)言っている」と聞かされた。後がないと思った。試合当日、監督に「相手QBを潰しにいくので使ってください」と伝えると、「やらなきゃ意味ないよ」と言われた。
    • 「潰せ」という指示は相手QBに怪我を負わせろという意味と理解した。
    • 「『リードをしないでQBに突っ込みますよ』と確認しました。井上コーチからは『思い切りいってこい』と言われました。このことは、同じポジションの人間は聞いていたと思います」(同人陳述書)注:リード(read)… プレーを読むこと。DLはリードして行動するのが普通。
    • 1プレーめの反則行為では、プレー中断のホイッスルが鳴っているのを認識していた。
東京新聞電子版2018年5月22日
  • 5月23日 日大の内田元監督と井上奨コーチが記者会見。反則行為の指示を否定。
  • 5月24日 日大側から関学側に再回答書
  • 5月25日 日大の大塚吉兵衛学長が緊急記者会見。

まだ事実関係が完全に解明されてはいないが、日大の監督によって精神的に追い込まれたプレイヤーが、監督の指示に基づいて、相手を怪我させる意図を持って件の行為に及んだ、と見るのが最も自然だ。監督によるチーム所属学生へのパワハラという点については、多くの人が感じていることで、取り立てて書くほどのことではない。私が本件で違和感を感じるのは、別のところにある。

今更のことだが、スポーツは、まず第一にプレイヤー自身の楽しみと喜びのためにあるものだ。他のだれかのためにするものではない。プレイヤー自身が幼い頃はともかく、大学生ともなれば、自分自身の意志によって仲間とチームを作り、運営していくのが本筋であると思う。他チームとのゲームでも、自分自身の意志によってゲームをするから楽しいのだし、喜びが生じるのだ。

ところが、日大アメフト部ではそれとは真逆となっていることが、今回の事件経過で明らかになった。

旧日本軍か

日大チームにおいては、プレイヤーは何年にも渡って監督の支配下に置かれてきた。部員は自分の意志ではなく、監督の命令によって動いていたのである。その思考と行動の様式は旧日本軍に似ている。ここで言う日本軍の思考と行動様式とは、以下のようなものだ。

  1. 上官の命令は絶対である。命令に逆らえば制裁を受ける。
  2. 兵士は考えてはいけない。
  3. 士官と兵卒は厳然と分かれ、交わることはない。
  4. 組織として行動するとき、命令者はその責任を免れる。最終的な責任はどこにも所在しない。
  5. 自らの存在理由は問わない。行動の目的は考えない。
  6. 行動における倫理は持たない。勝つことが最優先である。
  7. 敵に対して人間として尊重の念は持たない。同様に、味方の人間も人間として尊重されない。
  8. 敵味方問わず、生命を軽んじる。
  9. 不利な事実は隠蔽する。

明治以降、新憲法が制定されるまでの日本の学校教育の大きな目的の一つは、早期から国家と集団への服従を刷り込み、強力な軍隊を作ることにあった。軍隊作りには頑健な体を持つ男子が必要であった。その目的遂行のために取り入れられたのが「体育」だった。

帝国日本の支配層にとっては、スポーツとは兵士に要求される体を養い、命令に絶対服従する行動規範を植え付ける道具に過ぎなかった。本来、遊びであったはずのスポーツは、日本においては教育の僕(しもべ)とされてしまった。

そうした歪みは、日本が戦争に至る歴史を反省し、新憲法を持ったときから是正されていくべきものだった。しかし、日本全体としてみると、そうした問題意識が共有されてきたとは言い難い。

指導者という足枷から自由になった新興のスポーツでは、プレイヤーがのびのびとしていて、非合理的な行動やいじめはなくなってきたように見える。しかし、歴史の長いスポーツ競技では、特に学校教育と関係の深いスポーツで、残念な事件がなくならない。

例えば、女子レスリングの伊調馨選手への監督のパワハラ行為。某大学柔道部での差別発言と暴行。某大学ボクシング部でセクハラ行為。一度植えつけられた観念を拭い去ることは、実に難しい。

「監督・コーチ・部長などが大きな権限と影響力を持っている」「学校が経営の目玉としてスポーツ選手を育成している」「先輩と後輩という名の上下関係が厳しく存在する」「プレイヤー自身が営むチーム体制がない」「現役を退いたOBが大きな顔をしている」「小学生でもないのに父母会が活動している」そして、「強いチームである」。そうしたチーム、競技は要注意だ。

無言の学生たち 自律性のないクラブ

本題はここからだ。

事件発生から3週間が経過した5月27日の現時点で、日大チームは、今回の事件について無言のままである。私が問題にしているのはチームである。チームとは監督の所有物ではなく、大学のものでもない。本来はプレイヤー自らが作る自由な同盟である。だから、チーム自身が善悪を判断し、相手チームに謝罪するべきなのだ。監督の問題と混同すべきではない。

要するに、ゲーム終了時に、日大チームの主将が関西学院大学チームに謝罪するのが、あるべき姿であったのだ。そうしていないのは、日大チームが、大学生が作る自律性を持ったクラブとしての要件を備えていないことの、何よりの証明だと思う。

5月28日の最新情報では、日大アメフト部の学生たちが話し合いを続けており、近く意見表明をするとのことだ。学生の自主性に期待したい。

被害を受けた関西学院大学チームも、その点では同様の問題を抱えている。表に出て意見を表明したり物事を決めているのは、もっぱら監督ら指導者であって、学生たちはずっと奥に引っ込んでいる。全く何を考えているのか見えてこない。

そのことは、関学アメフト部と日大アメフト部の間での文書のやり取りでもみて取れる。主体はどこまでも部の指導者であってチームの学生自身になっていないのだ。その不自然さを当事者はもちろん、見解を寄せるスポーツ関係者、報道者に至るまで、誰一人自然と思っていないところに、この問題の真の深刻さがある。

残念ながら関東学生アメリカンフットボール連盟もまた同様の問題を抱えている。今回の件では、学生抜きに監督や部長ばかりが会議をし、見解を表明したり意思決定しているのだ。そうであることに、指導者も学生も慣れっ子になっているのだろう。なぜ学生たち自身が意見表明をしないのだろうか。

オトナになった学生

今回の事件で精神的成長を遂げたのは、自ら記者会見を開いて過ちを認めた宮川くんだろう。彼に対する非難は影を潜め、メディアでは同情するコメントが相次いでいる。世間の印象は良くなったのだろう。

ただし、それで彼の冒した過ちが帳消しになるわけではない。誰の指示に基づくことであろうとも、犯罪の実行者の罪が消えることはない、というのは日本の法の原則であるからだ。

彼は支配される者から、自ら考え、自分に責任を持つ者へと成長した。しかし、そのために払った代償は大きい。

ウザい大人たち

彼は記者会見で、もうアメフトを続けるつもりはないと言った。それに関して、テレビ番組のコンメンターの中には、「彼にアメフトを続けられるようにしてあげてほしい」と述べている人もいる。大きなお世話でないのか。

彼は自分の意志で辞めると決めたのだ。それを他人が「本当は続けたいに違いない。続けられないのはかわいそうだ」と想像して、「世間にお願い」する。それは同情というよりも、忖度だ。

彼は何も判断ができない小さな子どもではない。オトナである。一個の人格だ。彼は自分の行動を悔い、自分にはアメフトを続ける資格はない、と判断した。そして、やめると宣言した。その意志を尊重すべきだ。

彼に対してかわいそうだとか、アメフトを続けなければダメになる、などと「同情」を寄せるのは、大人が子どもを庇護する時にする態度だ。極言すれば、彼の人格に対する冒涜の上塗りだろう。

付け加えれば、子どももまた、自分の意志を持った人格である。そのことに気づいていないのは日大の指導者だけではない。

親の庇護はパワハラの裏返し

この事件で被害者の父親が記者会見を開いたり、警察に被害届を出したりと、表に立っている。子を守りたいという親の気持ちはわかる。しかし、だ。被害者の彼も大学2年だからもう19か20。被害届を出すならば自分でできるし、理不尽なことに対しては、屈することなく声を上げることもできる立場にある。どうするかは、彼自身が決めることだ。

それを父親が先回りして、公(おおやけ)の場で行動してしまっているように、私には感じられる。私が彼の立場だったら、恥ずかしくていられない。親だって究極には他人である。親子の間に連帯責任もないし、いつまでも従う関係でもないはずである。

親は子に対し「あなたのためを思ってやっている」という態度で振る舞いがちだ。私にも苦い経験があるので、反省を込めて書いているのだけども、親の子に対する過剰な庇護。これも一種のパワハラではないのか。

親にとっては子はいつまでも子である。と言われる。気持ちはそうだ。しかし、子の方は、やがて親から離れて一人立ちするほかないのだし、10代後半ともなれば誰でも独り立ちを望むものだ。

ましてや選挙権もあり、責任も問われる年齢になった人物に対して、庇護者のごとく振る舞うのは、親としての責務を果たしていると言えるのだろうか。

大学生のクラブにも父母会がある異常

その点で今回の事件でかなり驚いたのは、日大アメフト部に父母会が存在することだ。まるで小学生の野球チームのようではないか。父母が集まって何をするというのだろう。自分の息子たちは、まだ親の助けが必要な情けない男だと、社会に向かって表明しているようなものだ。私は彼らは自分たちで問題を解決する力を持っていると信じている。

お母さん、お父さん。息子さんを信じ、息子さんから離れよう。愛する息子さんを思うのならば。

障害者への不妊手術強制と同じ土壌

それと相通じる考えが、かつて恐ろしい人権侵害をもたらしていた。

旧優生保護法に基づき、国の主導で障害者に対して不妊手術を強制したのだ。その数1万数千件。今ようやく当事者たちの声が世の中に届き始めた。

優生保護法は「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とし、人間に優劣をつけて人間を選別する恐ろしい法律だった。

不妊手術の実施を進めた厚生省、地方行政、医師は障害者の不妊手術に本人の同意はとらなかったし、必要ともみなされなかった。当時の彼らに良心の痛みはなかったようだ。なぜか。

彼らにとって知的障害者や精神疾患罹患者は庇護の対象と見なされていたのではないだろうか。自分では何も決められない哀れな存在。だから自分が、国が、代わりに決定するのだ。行く末を思いやっての行動だ。そう思っていたからこそ、平気で人権を踏みにじることができたのではないか。

ふざけるな。余計なお世話だ。

人間誰しも、ひとりの人間として尊重される。日本国憲法が保障するこの思想には、自分で自分の道を決める権利、いかなる強制も受けない権利を含む。

スポーツの場でプレイヤーを自分の言いなりにさせようと振る舞う監督は、自分の観念の中ではプレイヤーを自分の庇護の対象であると思っているのだ。彼らは能力が劣るがゆえに、自分で決めることができない愚かな存在であり、自分の指導が必要なのだと。自分は選手を愛しているのだと。ただし、それは自分に従う限りにおいてだ。自分の指導に従わない場合、愛は敵意に変身する。

親も、子を愛するあまり、この罠にはまる。

親が子をいつまでも守るべきであるという、いまの日本の思想傾向は危険だ。裏返せば青年を一個の独立した人格として認めないということであり、これも人権の侵害なのだ。

「庇護者」からの自立を

忘れてはいけない。大学生といえば、なりたてとはいえオトナである。大人というものは、自分自身で考え、人間社会の厄介ごとには他人と話し合い、時には理不尽な力や誘惑と対決し、解決していく。その意志のある人のことを言うのだ。その胆力を養うためにこそ、激しいコンタクトスポーツの意義があるのではなかったのか。困難に立ち向かう勇気を実生活に活かせないのなら、アメフトをする意味がどこにあるというのだろうか。

どうか学生たちには、これを契機に真の自立を果たしてもらいたい。自分の人生は、あなたたち自分自身のものだ。

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1件のコメント

  1. 記事を書いた翌日の5月29日、日大アメフト部の選手一同が声明を発表しました。

    これまで、私たちは、監督やコーチに頼りきりになり、その指示に盲目的に従ってきてしまいました。それがチームの勝利のために必要なことと深く考えることも無く信じきっていました。また、監督・コーチとの間や選手間のコミュニケーションも十分ではありませんでした。そのような私たちのふがいない姿勢が、今回の事態を招いてしまった一因であろうと深く反省しています。

    考えること、教え込まれた「当たり前」に疑問を持つこと、安心と引き換えにして力に従ってはいないか振り返ってみること、その大切さに気づき始めた彼ら。

    齋藤 咲平

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