小糠雨に濡れている。私も、紫陽花も。顔に降り注ぐ水が心地よい。

小学生の時分に数年過ごした東京の借家には、小さな庭があった。六月、庭の隅で紫陽花が咲いていた。

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幼い頃から生きものが大好きな子どもだった。動物との最初の出会いは父母が飼っていた犬だ。ルイという名の雄のドイツシェパードだった。体は大きいが性格はおとなしく、賢い。庭に放し飼いにされていたので、居間からよく見える。ちょっぴり怖いので身を固くしていると、寄ってきて長い舌で顔を舐められたりした。

4歳の時、親戚のお兄さんに連れられて、生まれて初めて映画を観た。有楽町の映画館の前に立って見上げると、巨大な看板に狼が遠吠えしている絵が描いてあった。題名は「狼王ロボ」(原題”Legend of Lobo”)。ディズニー製作だが、アニメーションではない。特殊合成も使わない実写映画だった。19世紀末のアメリカ西部を舞台に、人間の圧迫に抗う巨大なオオカミの生き様を描いた野心的な作品だった。役者のほかに登場する演者は、人間に慣らされた本物のオオカミ。調教師の誘導によって自然に行動するオオカミたちを撮影し、物語に沿って巧みに構成されていた。因みに日本語版のナレータは宇野重吉だ。

「狼王ロボ」の原作はアメリカの小説家・画家アーネスト・トムプスン・シートン(Ernest Thompson Seton)の小説「ロボ カランポーの王」(原題”Lobo the King of Currumpaw”)。ロボはニューメキシコ州のカランポー谷に実在したオオカミだ。

ロボ一党は牧場の牛や羊を殺し回り、大きな被害を与えたので、その捕獲に1000ドルという多額の賞金が掛けられた。オオカミにして西部のお尋ね者だったのだ。ロボは大変に賢く慎重で、群れの統率力に優れ、どんな罠にもかからなかったので、牧童は「やつは魔物だ」と恐れる。優秀な狩猟者でもあったシートンはロボ退治を依頼され、智恵の限りを尽くして毒餌や罠を仕掛けるが、ことごとく見破られてしまう。しかし、観察力に優れたシートンは、粘り強く追跡を続け、彼らの残した足跡から行動を推理していく。そしてついにロボの弱点を掴み、生け捕りにするのだ。ロボの弱点とは、妻のブランカという白オオカミに対する甘さであった。他の手下には絶対の権力を振るって、群れを危険から遠ざけていたのだが、ブランカのわがままな振る舞いだけは許していたのだ。それを利用してシートンは巧妙な罠を仕掛け、まずブランカを捕らえ殺す。夜、シートンは山の彼方から響くロボの遠吠えを聞き、複雑な思いを抱く。心を乱したロボはただ一頭で荒野をさまよった末、ついに罠にかかってしまう。シートンと牧童は力尽きたロボの亡骸をブランカの横においてやる。

シートンは捕らえたブランカとロボを写真に撮り、残している。この物語は、シートン自身が体験した事実をもとにしているのだ。

映画では原作にはないロボの子供時代のエピソードが創作されていたり、ロボが妻を取り返して去っていくという結末に変更されていたが、オオカミの気高さ、人間と狼の息詰まる駆け引き、ロボの唯一の弱点が妻に対する甘さであったことなどの、原作の核は生かされていた。

この物語は、ヒューマニズム自体が人間の強欲さ、残酷さを肯定していることに気づかせ、人間社会を相対化してとらえる視点を私たちに与えてくれる。17世紀以来、乱暴に自然を収奪し、自然と敵対し続けてきたアメリカ社会だからこそ生まれたアンチテーゼの文学として、アーネスト・T・シートンの作品群はもっと評価されるべきだと思う。

4歳の私がもちろんそんな感想を抱いたわけではない。しかし、一つのシーンが、目に焼きついて今も消えないでいるのだ。

アメリカ西部の黄色い荒野。峡谷の岩に立ち、こちらを見下ろすロボと仲間たち。オオカミの黄色い目は、頭部全体に比べて小さく丸い。その小さい目が、逆に巨大な体と知性を暗示している。ふさふさした毛は風に揺れている。背後は雲ひとつない青い空。あたり一帯、人間が作ったものは、何ひとつない。

この映画を観て以来、オオカミに似たルイに対する親しみはいっそう増した。

しかし、ルイとは父の関西への転勤によって、4歳の時に別れることになった。

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転居先は兵庫県の甲子園に近い社宅で、大型犬を飼うことはできなかった。その代わり、東京の街中では出会えなかった生き物に触れることができた。社宅の前には田んぼがあり、春から夏にかけてかえるの鳴き声が聞こえる。田んぼの水面には水草が浮き、どじょうやあめんぼ、げんごろうがいた。有刺鉄線で囲われていたが、私たち子どもはその隙間から勝手に入ってカエルを取っていた。

田んぼには草色をしたアマガエルと、シュレーゲルアオガエル、茶色いツチガエルの3種類いた。一番多いのはアマガエルで、夕方ともなると一斉にげっげっげっと騒々しく鳴いた。シュレーゲルアオガエルはくるるるると鈴のような高い音で鳴く。

かえるを手づかみすると、虫かごに入れて眺めるのだ。アマガエルは周りの色に応じて体色を変化させる。腹を見るととぐろを巻いた腸が透けて見えた。

取ってきたかえるを飛び跳ねさせて、跳ねる距離を友達同士で競ったりする。そのうち、潰してしまったり、飢え死にさせてしまったりした。偶然にそうなったかのように振舞ってはいたが、実は殺してみたかったのだ。

死んだかえるは寮の前庭に放っておいた。死骸は干からびて青黒いミイラになった。ミイラになるとかえるの骨格がよくわかる。後ろ足の起点となる腸骨という骨が前後に長く大きいのだ。腸骨は人間では骨盤の一部であり、かえるを捕まえる時に指でつまむところである。骨の名前は知らなかったが、その構造と形はしっかりと記憶に残った。

かえるを殺したことがわかったときは母に叱られた。初めて後ろめたい思いをした。しかし、かえるをかわいそうだと思ったのは後のことだった。

それからしばらくしてニワトリの雛を買ってもらった。その頃はいろんな動物が道端や神社などで売られていた。鶏卵を目的としたニワトリの場合、雄は必要ない。だから選別された後は潰される運命であるのを仕入れ、安く売っていたのだ。我が家に来た雛は何日か生き、少し大きくなったところで死んでしまった。動物が死ぬと目が濁り、体が固くなることをこの時知った。死ぬ、ということの感触が、手にあった。私たちは家の近くに穴を掘って埋め、墓を作った。

社宅の前庭にはオオバコが生えていて、それを千切っては、子ども同士で引っ張り合いっこをして遊ぶ。オオバコ相撲といった。どのオオバコが強いのか品定めをするのだが、太いからといって強いとは限らない。運任せだった。

春になると、女の子たちはクローバーを集めて花輪を作って遊んだ。一緒に遊んでいると、ままごとの相手をさせられ、砂団子を食べる真似をする羽目になる。真剣にやらないと、機嫌を損ねて大変なのだった。

5月になると燕がやってきて軒下に巣を作った。親鳥がせわしなく巣を往復し、虫を運んでくるとぴいぴいと雛の鳴き声がする。見飽きなかった。

友達と土を掘って水を注ぎ、空想の世界で遊ぶこともあった。掘るとみみずや蟻が出てくる。ハサミムシは慌てふためいて逃げてゆく。土の中にもたくさんの生き物がいることを知った。みみずは土を食べるのだが、よく見ると長い体の中に食べた土が透けて見える。その土がゆっくりと動くのだ。

社宅の中にある独身寮の壁際にはアリジゴクが円錐形の巣を作っていた。蟻がそばを通ると、ピュッと砂が飛んで、 蟻が転げ落ちる。這い上がろうとすると、また砂が飛び、ついにはアリジゴクの顎に捕まってしまうのであった。

土遊びに夢中になっていたある日、針で刺されたような痛みで飛び上がった。慌ててパンツを下ろし、痛むところをみると、ちんこに1匹の黒い蟻が噛みついていた。あまりに蟻の巣を壊したので仕返しされたのだろう。蟻の顎の力は大変に強いのだ。

そういえばその頃、「ウルトラマン」にアントラーという怪獣が登場したが、あれは蟻の怪獣なのか、それともアリジゴク怪獣なのかどちらなのだろう。ともかく、あのヒリヒリとした痛みは忘れられない。

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遊び仲間は歳下から歳上まで幅広かった。石蹴りやなわとびをするときなどは、力や能力の劣る年下の子は「おみそ」と呼んで、手加減するのが通例だった。一番上は近所の12歳くらいのお兄さんで、私の遊びの師匠であった。

師匠は「パチンコ」を持っていた。Yの字型をした丈夫な木枠の両端にゴムバンドを括りつけたもので、彼の手製だった。これで小石を投げ飛ばす。アメリカ人が持ち込んだ道具で、あちらではスリングショットと呼ばれる。ある日師匠はパチンコで仕留めたという雀を見せてくれた。付け加えておくと、子どもとはいえ許可なく鳥獣を狩るのは当時から違法である。この飛び道具はかなり威力があり危ないというので、大人たちは禁止しようとしていた。生々しい戦争の記憶が大人たちを過敏にしていた。私たちハナタレコゾウは輪ゴムでミニチュア版のパチンコを作り、軽い紙つぶてなどを打ち合って遊んだ。

またある時は、自作の手裏剣を見せてくれた。当時、子どもたちの間で忍者ブームが巻き起こっていた。マンガでは横山光輝作「伊賀の影丸」や白土三平作「サスケ」が大人気であったし、テレビではアニメ「少年忍者風のフジ丸」が放送されていた。

忍者の手裏剣というと、当時は十字手裏剣や星型の手裏剣が定番だったが、彼が作っていたのは刃が一つの棒手裏剣だった。

こうやって作るんや、と言って、大きな釘を手の平ほどの大きさの石で叩いて平たく潰して成形する製作手法を教えてくれた。今、ホームセンターで手に入る釘はほとんどがクロムメッキやステンレス製の小さな丸釘だが、彼が持っていたのは黒光りする太く大きな釘だった。私はしゃがみこんで師匠の手つきをじっと見つめた。

できた手裏剣は妖しく光っていた。師匠は独身寮の建物の裏手に古い畳を立てかけ、人のいないのを確かめてから手裏剣を打つ。ブスッという重い音を立てて突き刺さった。私もやらせてもらった。気分はフジ丸である。何回か試すと刺さった。しかし、この遊びはたちまち大人に見つかり、できなくなった。

社宅の前には、時々移動パン店がやってきた。音楽を鳴らしながら菓子パンを積んだ車をロバが牽いてくるのだ。「ロバのパン屋さん」といった。母が蒸しパンを買ってくれるのも楽しみだったが、お目当てはロバだった。おとなしい動物だが、背後には立ってはいけないと、パン屋のおじさんが教えてくれた。ロバの目は頭の左右についていて人間よりも視野が広いが、背後は死角に入るのでロバが不安になり、攻撃するのだ。後ろ足で蹴られたらひとたまりもない。

ロバは優しい目をしており、めったに鳴かない。停車すると尻尾の毛を振って蝿を追い払いながら道端の草を食べる。青みを帯びた灰色の毛は、撫でると硬かった。

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幸せな日々も長くは続かなかった。小学校に入学して夏休みが終わったところで、父の仕事の都合で東京に戻ることになった。ようやくできた友達との別れは辛かったが、アオガエルにもコガネムシにもとんぼにも会えなくなるとは想像しなかった。

私たち一家は一年あまり、大田区の石川台に住んだ。小学校は洗足池に至る坂道の途中にあった。坂の上に位置する洗足池は日蓮が足を洗ったという言い伝えのある大きな池で、趣のある景勝地だ。

春になり、ある日登校していると、道を大きなヒキガエルが同じ方向に登って行くのに気づいた。 それも1匹ではない。歩道ばかりでなく、車道にも、のそり、のそりと坂の上へ向かって歩いている。車に轢かれて潰れているものも見た。平たくなって腸がはみ出ていた。

背中がぞくぞくとした。気味が悪いからではない。ヒキガエルたちは示し合わせたように、突然に姿を表し、池を目指している。何かに突き動かされて、人がいようが車が走っていようが御構いなしに、進んでゆく。眠たげな目をして、何を思っているのだろうか。彼らはどこから来たのだろうか。一体これだけの数のヒキガエルが、街中のどこに隠れていたのだろうか。そんなことを思うと、とても大切な何かに触れた気がして身震いしてくるのだった。

ヒキガエルは長生きな動物だ。早春に冬眠から目覚めると、沼や池などの水場に一斉に集まり、集団で交尾産卵する。交尾産卵行動はほぼ1日に集中する。この時は力ずくで相手を奪い合う。産卵を終えると、再びどこかに散ってゆくのだ。

近所のおじさんが、家の庭からもぐらが出てきたと言って、死んだもぐらを見せてくれたこともあった。もぐらは細長く伸びていて、想像していたより小さかった。

生きものは、人間の生活圏の中にもたくさん生きている。今もコンクリートとアスファルトに覆われた都会の何処かに、彼らは堂々として存在する。私たち人間が気がつかないだけ、いや、気がつこうとしていないだけなのだ。

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一年経ち、秋になってまた引越しをした。それが目白台の借家だ。江戸時代の末に発行された地図をみると、我が家のあった辺りには、小禄を食む幕臣の小さな屋敷が隙間なく並んでいる。我が家のあったところの旧町名は高田老松町といった。古地図と照らし合わせると、家の前を通る鍵形に折れ曲がる小道が、江戸時代から変わらずに残っていることがわかる。引っ越した当初はまだアスファルト舗装されておらず、木製電柱には古い町名を示す標識が残っていた。

転校した初日、初めてできた友だちに、遊びに誘われた。ついてゆくと、目白通りと脇道に挟まれた、わずかアパート一部屋分ほどの広さの、三角形をした空間に着いた。看板には「じどうゆうえん」と書いてあったが、そこには小さな砂場とブランコがあるだけ。どうやって遊ぶのだろうと途方にくれていると、友だちは砂場に落とし穴を作ろうぜ、と言った。気を取り直し、一緒になって落とし穴を完成させたら、通りかかった頭のはげたおじさんに怒られた。誰一人引っかかりそうにないこんな落とし穴ごっこの、一体どこがいけないのか。さっぱりわからなかった。

平屋建てのこじんまりとした木造の家は、古い日本家屋だった。家は木の塀に囲われており、東側に門があった。

門は引き戸で、がらがらと開けると真鍮製の鈴が鳴る。大人の足なら数歩で狭い玄関に至り、そこから奥に向かって廊下が続く。玄関の左に子供部屋、玄関をはさんで反対側に台所があった。廊下の左に二間続きに茶の間と親の部屋があった。廊下の右側には風呂場と洗面所、便所があった。廊下の突き当たりには三畳の小部屋があり、父の蔵書と資料の山で足の踏み場もなかった。

建物は敷地の北寄りに建てられており、南半分が庭だった。中央に赤煉瓦の花壇が作られており、木も何本か植えられていた。隣家と接する日陰には青木、八手と紫陽花があった。


伝統的な日本家屋の多くがそうであるように、この家にも、南面に二間をつなぐ縁側があった。

縁側は、南に面して日がよく当たった。ガラス戸の桟は木製で風雨に晒されて黒ずみ、木目が浮き出ている。冬には日光で桟が温まり、古びた木材特有の匂いが漂う。撫でると気持ちよかった。

縁側の下は、縁の下だ。今の戸建て住宅はコンクリート基礎だから、濡れ縁はあっても縁の下は事実上ない。でもその古家は石の上に柱が立っており、縁の下に溜まった枯れ草の下にはエンマコオロギがいて、秋には鳴き声を聞くことができた。夏は夜になると庭が熱を逃がす役割を果たし、縁の下の冷気で冷やされるから、熱がこもらない。多少寝苦しいが、エアコンはなくても済んだ。

上顎の乳歯が抜けた時には、股の間から抜けた歯を縁の下に投げ込んだ。下の歯が抜けた時には家に背を向け屋根に放り投げた。

風呂場はコンクリートのタタキで、その上に木のすのこを敷いて洗い場にしてあった。風呂桶はもちろんガス釜のついた木桶で、排気用のパイプが外に伸びていた。点火にはマッチが必要だった。温度調節機能はおろか給湯機能さえない。湯が沸くと風呂釜から垢のようなものが浮いてくる。風呂に入るとそれを洗面器ですくって捨てるのが常だった。今から考えるとずいぶん不便で、およそ快適とは言えないが、嬉々として入った。いつも薄暗く湿っているから、 げじげじやカマドウマやなめくじが入り込むのも楽しみの一つだ。母がなめくじには塩をかけろというので、やってみると萎んでしまった。

冬になると隙間風が寒さを運んでくる。1台しかない石油ストーブで暖をとったが、換気せずとも一酸化炭素中毒にはなりそうもなかった。

母は台所が寒いとこぼしていた。でも良いところもあった。一年中冷涼であるので、ぬか漬けを作るのに好都合だったのだ。台所の床下には益子焼の甕が置かれた。のちに父母はマンションを購入したが、手をかけたにも関わらず、糠床は発酵しすぎてダメになった。

子供部屋にはストーブがないので、いっそう寒い。朝、雨戸に開いた節穴から光が差し込んで目が覚めると、身震いする。布団から出たくないので、寝る前に着替えを枕元に置き、目覚めると掛け布団の中で着替えた。

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とにかく古ぼけた家だった。今から思うと築30年は越えていたと思う。もしそうだとすると、昭和20年3月の東京大空襲でも、焼けなかったということになる。

このあたりは武蔵野台地が江戸湾の低地に向かって東に突き出た先端に当たる。わずか数千年前は海岸だったところだ。家から東に行くと急坂になっていて、降り切ったところはもう下町の音羽だ。音羽通りを南へ行くと江戸川橋が神田川にかかっている。橋を渡ると関口、早稲田の町が広がる。

江戸時代には飲料水として利用された神田川の水も、昭和四十年代には黒く澱んでいた。汚水が流れ込み、近づくと胃の中のものを吐き出しそうになるほど臭かった。今は水質浄化が進んで一見すると水は以前よりずっときれいだが、普段の水量は少なく、水害防止のために深掘りされてコンクリートで固めた川は、相変わらず人工の巨大排水路のままだ。

江戸川橋のすぐ上流側に、江戸時代には大洗堰(おおあらいぜき)という堰があった。井の頭の池を水源とする神田川は、かつては江戸川と呼ばれ、水量も今よりずっと豊かだった。その水を江戸城の堀に引き込むために設けられたのが大洗堰だ。神田川はここで二手に分かれ、一方は上水道に繋がっていたのが古地図で確認できる。(注記:現在、江戸川と称されている河川は古い利根川に相当する。)

本流は飯田橋のところで江戸城外堀と接し、御茶ノ水、神田秋葉原を経て、隅田川に注ぐ。大洗堰のあったところは左岸が崖になっており、そのちょうど上に私の通った小学校があった。校舎は卒業後に建て替えられたものの、学校は今もその地にある。

在学中、学校の創立記念冊子が配られた。その中に、創立まもない昭和の初めに撮影された一葉の写真があった。撮影場所は学校の崖下の神田川。川の中に岩があり、その上に乗って子どもたちが遊んでいる。後ろには堰が写っていた。当時は今のように川床が低くなく、垂直なコンクリート護岸ではなかったため、岸に降りられたのだ。 初夏には蛍が見られたという。

もちろんというか、私がいた頃には野生の蛍など生きてはいない。そこである年、飼育された蛍(正確にはゲンジボタル)を運んで来て放し、往時を偲ぼうという企画が持ち上がった。イベントをおこなったのは結婚式場として有名な椿山荘。学校の隣に位置し、神田川へ降る傾斜地を利用して造られた、池とツツジが美しい日本庭園がある。

六月のある日、放たれた蛍は学校や神田川にも飛んで来た。我が家の庭にも数匹迷い込んで来た。月のない夜空に規則的に点滅する光が泳いだ。

蛍の光は繁殖期に雄と雌が出会い交信する役割を果たしている。ヒキガエルと同様、ゲンジボタルも限られた時期の夜、産卵に適した浅い川の水辺に集結する。ゲンジボタルは尻の発光器から光を点発する。その時、群れ全体で点滅が同期する。暗がりに蛍の光が一斉にポーッポーッと光る様は壮観だ。交尾を終えると、雌は水際の苔に卵を産む。ゲンジボタルの幼虫が食べるのはカワニナという巻貝だけであるので、カワニナの生息できない環境ではホタルが繁殖することはない。我が家に飛んで来た蛍は、産卵できる水辺を求めて、あてどなくさまよっていたのだろうか。

人間の気まぐれで放たれたゲンジボタルたち。その後、幼虫が育って蛍の里が復活することはなかった。


失って初めて大切さに気づくと言うが、人は「いま」に溺れると過去のことを簡単に忘れてしまう。後から来た世代はかつての世界を知ることはできない。知らないものを大切だと想像するのは難しい。

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私は憂鬱だった。生まれる前の過去を知らなかったが、「いま」が異常であることは、感じていた。

世の中が物で溢れていけばいくほど、子どもの世界は無くされていった。石川台にいた時には、石墨で道路に落書きできたが、目白台ではそんな遊びさえできなくなっていた。

高台にある目白台から低地の音羽や関口に行くと、がらりと町の雰囲気が変わる。

音羽から関口にかけた地域には、印刷出版に関連する業種が集中していた。その多くは家内工業の印刷屋や製本屋であった。紙の裁断業を営む級友の家に遊びに行くと、ガタンガタンと機械の音が休むことなく響いていた。関口には駄菓子屋が一軒あって、そこで買い食いするのが唯一、東京の子どもらしい楽しみだった。

多くの男の子が野球グローブとバットを持っていた。地域の少年野球チームに入っている子も何人かいた。ある日、数人で遊んでいると、どの球団が好きか、という話題になった。

しかし私はといえば、テレビのプロ野球中継を見ることもなかったし、知っている選手は三人しかいない。曖昧な返事でその場をごまかした。野球を知らないのは私一人だということに初めて気づいて、急に野球に興味が湧いた。

休日になると、私たち子どもは近くの私立中学の運動場に勝手に入り込み、草野球をした。グローブは友達のものを借りた。バットを球に当てられないのは、悔しいというよりも恥ずかしかった。すると友達がゴニョゴニョと耳打ちをする。バントをして出塁しろという指示なのだが、意味がわからず、出塁は失敗に終わった。

このままではそれこそ「おみそ」扱いになりかねない。親にねだり、グローブと軟式野球ボールを買ってもらうことに成功した。すると何を思ったのか、父が珍しく庭に誘った。それから三十分ほど、買ったばかりのグローブをはめて、二人でキャッチボールをして過ごした。野球に興味がないはずの父がこんなことをするとは、思ってもみないことだった。

草野球はある日を境にできなくなった。若い男が野球を教えてあげると言って男の子たちに近づき、パンツを下ろさせる事件が起きたからだ。管理は厳しくなり、出入りは難しくなった。

小学校は放課後の校庭開放を始めた。校庭は狭く、アスファルトで固められていて、飛び跳ねると脳が揺れ頭が痛かった。男の子たちは転ばないように気をつけながら、軟式テニスボールとラケットで三角ベースをした。

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小さなうちに三度も環境が変わると、深い人間関係を作ることを学びにくくなるものだ。せっかく仲よくなりかけても、また別れる。しばらくすると名前も忘れてしまう。

出会いは別れの始まりで、執着は悲しみを増すだけだ。そんな風に信じることで、自分を守ろうとしていたのかもしれない。幼い頃は何があってもケラケラと良く笑い、祖母から「笑い上戸」と評されていたが、この頃になると内気さが前面に出るようになった。喋るのが苦手になり、会話が続かない。作文の時間では、十行も書けないで終わることも度々になった。書きたいことが何も思い浮かばないのだ。 言葉は苦手だと思った。

私はノートやスケッチブックに鉛筆で絵を描いて過ごすことが多くなった。描くのは狼、犬、狐、虎、豹、ライオン、猫、象、カバ、鹿、馬、イルカに鯨、鷲や鷹、昆虫。いのちを渇望する思いが絵を描かせる。

縁側に寝転がって絵を描いた。ここにいると、騒音も、排気ガスの匂いも、どこまでも続く建物も、息詰まる人混みも忘れることができた。

六月になった休みの日。その日は今日と同じような細い雨が降っていた。縁側に座り込んで、私は紫陽花の咲く庭を見ていた。ガラス戸を少し開けると、庭から漂う水と土の匂いを嗅いだ。ずっと庭を見ていた。

紫陽花の下の暗がりで、何かが動いた。よく見ると、ヒキガエルだった。春、池を目指して坂道を登っていた、あのヒキガエル。体が大きい。おそらく雌だろう。身じろぎもせず、半眼でこちらをじっと見ている。わずかにのどの動きが生きていることを証明していた。ここからは表通りを越えて、数百メートルも離れたところにしか水場はない。春先にもヒキガエルの行進を見てはいない。だが、ここに生きている。雨を頼りに、どっこい生きている。

あれから五十年。六月の雨は、今日も優しい。

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