我が家の黒猫はよく頬をものにこすりつける動作をする。この行動はめずらしいものではなく、マーキングと呼ばれている。理由としては自分の匂いをつけることによって、なわばりを誇示するためだとか、安心感を得るためだとか、いろいろな説明がされてはいるが、それは生きるうえでどのような意味があるのかという、わたしたち人間の疑問に対する解答、仮説だ。黒猫はどう思ってやっているのだろう。

当人としてはかゆいだけじゃないの、とは妻の見解だ。わたしが手を差し出すと手に頬をこすりつけてくるし、頬をこすってやると、ぐるぐるとのどを鳴らす。もう目を閉じて至福の表情に見える。

匂いつけ行動は哺乳綱に属する動物に広く見られる。わたしも哺乳類なので、たぶんやっているけど、意識しては、やっていない。こういう行動は頭で考えてやるものではないのだろう。そうだとすると、うちの猫も何の気なしに癖のようにやっているというのが、ほんとうのところかもしれない。

先日NHKのBS番組「ワイルドライフ」で、白山連峰に生きるニホンカモシカを取り上げていた(題名「白山連峰の四季 ニホンカモシカ 恵と試練の山を生き抜く」、2016年8月の再放送)。見応えのある番組だった。山野に生きる日本の動物をカメラに収めるのは、実はアフリカのセレンゲティ平原でライオンを撮影するよりも難しい。多くの動物が人間に対して警戒心が強く、おまけに木が邪魔で見えないことも多いのだ。それを辛抱強く、よくも撮ったものだ。

ニホンカモシカ(以下、かもしかと書く。生物名の標準和名は片仮名表記、日本での伝統的な名称はひらがなか漢字で表記することにする)には、目と鼻のあなの間に一対の臭腺がある。この臭腺からは人間のわきがに似た汗のような分泌物が出ていて、そのせいでいつも黒く濡れている。番組では立ち木にそこをこすりつけるようすもとらえていた。

十年ばかり前、東京の奥多摩を訪れた時のことだが、かもしかを見たことがあった。初めに目撃したのは喫茶店で休憩がてら、店主に地元の自然について話をきいていたときのことだ。窓の向こうには山が迫っていて、ところどころ岩肌がむき出しになっている。その急斜面に一頭、立っていた。差し渡しの距離は80メートルくらいだった。
店主の話では、めずらしいことでないらしい。そのあと、山を歩いていたら、一頭のかもしかに尾根から見下ろされているのに気づいた。距離は20メートルほど。目が四つあるように見えたのは、臭腺からの分泌物による黒いシミのせいだ。しばらくみじろぎもせずにいたが、やがてふいと身を翻して尾根の向こうに消え去った。五分ほどであったろうか。

かもしかは好奇心の強い動物だといわれている。このときも、眼下を通る間抜けな人間をおもしろがって観察していたのかもしれない。頭の横の方についている目は黒く光り、こころのなかを人間が推測するのを拒む。母子連れ以外は単独行動を貫くかもしかは、群でないと生きられないわたしたちには理解不能であり、ときには神々しくさえ見える。

険しい崖をすみかとするかもしかは、しかという名がついてはいるが、じつは鹿よりも牛に近い。牛を含むグループをウシ科というが、ウシ科の動物は、鹿と違って角が角質のみでできて骨の上に厚い角質が被さった構造になっていて、枝分かれもしていない。ニホンカモシカの近縁種は台湾やスマトラ、中国内陸部、ヒマラヤなどに5種が知られている。そしてこのグループはウシ科の中でも、山羊や羊に近いことが、DNAの解析で判明している。山羊も山岳に適応した動物だし、瞳孔の形もかもしかと似ている。

かもしかは地方により時代により、さまざまに呼ばれてきた。狩人ら山の民は、あおしし、あおじし、などと呼んだ。単にしし、という呼ぶ例もある。

スタジオジブリの映画「もののけ姫」に登場する「ししがみ」。鹿のような枝角を生やしている。からだはトナカイのようだ。そして、その頭部の風貌はかもしかを想い起こさせる。

「しし」は、ふるくからある大和ことばのようだ。ししが食べられるけもの全般を意味する、という説明を読んだことがある。猪のしし、鹿のし、だ。古くはい(ゐ, wi)で猪、かで鹿を意味した。鹿は古くはかのししとも呼ばれた。いのししは、い(ゐ)-の-しし(獣)、かのししはか-の-しし(獣)だ。

そういうわけだから、ししがみはしし-かみで、獣の神という意味であることがわかる。

十二支で亥をい、と読むのは、干支の亥(がい)の象徴が猪(中国では豚を意味する)であるからだ。このことからも、い(ゐ)の一音で猪を意味したことが推測できる。

猪や鹿に親しみを込めて子をつけて呼ぶと、いのこ、かのこ、となる。鹿の子模様といえば夏毛のニホンジカの背中に現れる白い斑点模様のことだ。

庭に置くししおどしには鹿威という字が当てられるが、この語のししは鹿と限定するよりも、より広くけものを意味すると解した方がよいだろう。

辞書でししのつく言葉を拾うと、ししみち(=けものみち)、ししがり(=獣狩り)が見つかる。

東北には鹿踊りという伝統芸能がある。しし-おどり。踊り手が被る被りものには鹿のような枝角があしらわれているから、この場合は、ししということばが鹿を指す言葉として使われているとみてよいだろう。

因みに、獅子舞のししについて。獅子は梵語(サンスクリット語)でライオンを指してsimhaと言うことに起源があるとされる(注:ライオンはスワヒリ語ではシンバ)。やまとことばのししとは関係ないらしい。

そう見てくると、かもしかというなまえは比較的新しいのではないかと思えてくる。実際の姿をよく知っている山の民が、かもしかを見て鹿の仲間だとみなしたと考えるのは不自然だ。

国語辞典によると、かもしかのかもは、毛氈のことで、昔はかもしかの毛から毛氈を作ったことからこの名が起こったという。かもしかの別名にはかもししという名称があるとも書かれている。

これまでに見てきたように、ししということばに鹿という漢字が当てられる例は多い。だとすれば、かもししの当て字として毛氈鹿と、書物に記載されていたとしても、なんら不思議ではない。もしそうなら、本来の名を知らない人が鹿の字を「しか」とまちがって読んでしまい、その誤った名称が広まった可能性が出てくる。

ところで、「しし」ということばは、けものの肉も意味していた。

考えてみれば人間は大昔から道具を使って動物を狩り、その肉を食べて生き残ってきた。肉はわたしたち人間の生活に欠くことのできない基本単語のひとつのはず。ところが、 にく、ということばは漢語が由来だ。このことが随分むかしから不思議に思っていた。どうして、より古くからあるししということばを使わなくなってしまったのだろうか。

考えてみるに、仏教が輸入され、獣の肉を食べることが肉食(にくじき)といって禁忌とされるようになったことと、深い関係があるのではないか。肉を食べるのはやましいこと、いやしいこと、といった観念が社会を覆うにつれて、肉は表舞台から姿を消し、陰でこっそりと楽しむものになってしまう。縁遠いものとなったことにより、肉を指してししとよぶ機会も減り、肉(にく)という漢語由来のことばがマイナスの意味合いを持って使われるようになっていった。そうした社会状況が一千年以上も続いた結果、ししという言葉はあまり使われなくなり、その意味が忘れられていった。そのように推測されるのだ。

ししおき、ということばがある。肉づき、という意味の言葉だが、今はほとんど使われない。
小説家の池波正太郎はこのことばが好きだった。豊満なからだつきをした女の描写に何度も使っている。ししおきのよい女、と表現されると、なぜだか艶っぽい。肉づきのよい女、では色気がない感じがする。ししおきが大和言葉であるから、ということもあるだろうが、それだけではない、と思う。
ししということばには、人間が獣とともに生きていたときの感覚がある。生きている人間、生きているけもののあたたかさ、息遣いが感じられる。

追記
ニホンカモシカの匂いつけ行動について
古い記事ですが、紹介します

撫養明美,1984,匂いづけの意味は何か,アニマ No.133:p.85-88, 平凡社

著者は長野県上伊那郡の森林でニホンカモシカの匂いづけ行動を調査し、報告しています。それによると、観察中に眼下腺のこすりつけ行動が急増した場合を分析し、次の3つのパターンに分類されるとしました。
1)他個体と出会う、接触する、または他個体の行動した後を通過する場合
2)観察者が近づいた場合
3)行動圏内に新しい物が現れた場合
このことから、「カモシカの眼下腺こすりつけが多くなる理由は、(適切な表現はしがたいが)心理的変化(たとえば、興奮、緊張、不安等)が考えられる」と書いています。

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